FAさん
天翔記PK シナリオ1(35)
1537年、夏
秋月に続き毛利へ使者が来た。
今度は秋月が敵対する大内だ。
使者は、陶隆房(大内家家老、178 184 176)。
陶 隆房「主君大内義隆より元就様への伝言を預かって参りました」(会話文はゲーム中のもの)
毛利元就「義隆殿の使いか、大方察しはつくが用件を申してみよ」
確かに察しはつく。
毛利と好みを通じたいのであろう。
毛利には安芸佐東銀山城を奪取されているが、それは問題ではないらしい。
現状では、尼子、毛利、秋月、大友、すべてが大内の敵、まさに四面楚歌だ。
尼子、大友との相性は悪い。
秋月との相性は良いが、秋月は【勢福寺城の攻防戦】以来、大内を敵視している。
今の苦境を脱するには毛利と結ぶよりほかはない。
陶隆房「両家の関係をより親密なものにしてくだされ」
友好度は0であるから、これを承諾すれば10か、問題はこれに承諾した場合、大内がいずれに攻め入るかだ。
[承諾]
毛利元就「願ってもない申し出じゃ、承知させてもらおう」
陶 隆房「毛利と大内が力を一つにすれば天下に敵なしですぞ!」
大内は、いずれにも攻め入らなかった。
勢福寺城の兵を増強していたようだ。
杉 興運 255
宗 晴康 255
吉見正頼 230
杉 隆泰 210
天野隆重 210
総勢1,160の大軍だ。
この部隊はおそらく秋月征討軍であると思う。
それに引き替え秋月は・・・
大内、大友勢に撃退された後、金、行動力、徴兵可能数いずれも十分であるというのに、兵を増強をしていない。
撃退された時のままだ。
つまりは兵数0。
これも人格データの違いだろうか?
・・・・・・やむえんな。
1537年、史実であれば元就の嫡男少輔太郎(隆元)(15)が大内へ人質としておもむいた時期らしい。
史実を再現するのであれば、1537の冬に(隆元が山口に到着したのが12月1日であったらしい)隆元を大内に送り、同盟を結ぶことも可能だが、都合上それはしない。
ついでに1537年の夏までに起こった事柄を簡単にあげると。
1月?日
結城政勝、古河公方足利晴氏の助けを得て、結城城を攻めた小田政治・多賀谷家重を撃退。
2月6日
後の豊臣秀吉が生まれる。
同じ年に生まれた武将としては、足利義昭、清水宗治、下間頼廉(武将?)、前田利家等がいる。
2月10日
武田信虎(44)の娘定恵院と今川義元(19)が結婚、甲駿同盟成立。
今川氏、相模北条氏と断交。
4月27日
上杉道興(うえすぎ どうこう)(朝興)(50)、河越城にて没。
6月25日
松平広忠、今川氏の支援で、駿河から岡崎城へ帰る。
7月15日
北条氏綱、上杉朝定を河越城に破る。
担当大名長尾家にターンが回ってきた。
大友家の蒲池城をクリックしてセーブ。
蒲池城の兵を補充した。
大友の大名データをなにげなくのぞき見た。
尼子と友好、大内と敵対、となっている。
典型的な遠交近攻策ではあるが、なるほど、悪くない手だ。
今度、実践してみよう。
メッセージ
「朝倉孝景と浅井亮政が共同で本願寺証如に当たるようです」
1537年春、朝倉の中央への進出を牽制するために北ノ庄城を下間頼照ひきいる一向一揆勢にて奪取させたのだが、効果があったようだ。
朝倉は、坂本城へ六角の押さえとして、猛将・山崎吉家に192の兵を与えて備えさせた。
さらに、255の兵を率いる朝倉家の柱石・朝倉宗滴を北ノ庄城に隣接する一乗谷へ入城させ、210の兵を率いる真柄直隆を同じく北ノ庄城に隣接する府中城へと入城させた。
肝付、伊東、同盟破棄。
河内畠山、赤松、友好を深める。
長尾家へ佐竹からの使者、岡本禅哲(佐竹家宿老、186 164 186)。
岡本禅哲は戦国期佐竹家の柱石的人物であったそうだ。
佐竹家の名参謀であったらしい。
岡本禅哲「この放生月毛は佐竹家よりのほんの心尽くし」(会話文はゲーム中のもの)
放生月毛(ほうしょうつきげ) 馬 7等級
どうせ蘆名領への侵攻を認めろと言うのであろうが、そうはいかんぞ。
放生月毛などで・・・
なにっ!謙信の愛馬!
禅哲め!
長尾家に謙信の愛馬とは、こしゃくな真似をしよる。
長尾晴景「その品、無論ただではあるまい、用件を聞くといたそう」
岡本禅哲「われらと心を一にして憎き蘆名盛氏に向かいましょうぞ」
やはりな。
しかし長尾家は治安維持勢力、これを許すわけにはいかん。
[承諾]
しまった!押し間違えた!(うそつけ)
長尾晴景「願ってもない申し出じゃ、承諾させてもらおう」
岡本禅哲「ありがたい、では放生月毛をお受け取りください」
メッセージ
「佐竹家、長尾家の関係がかなり良好になりました」
CPU武将に籠絡されてしもた・・・
それにしても見事な外交戦術だ。
さすがは禅哲殿。
風柳斎殿、リプレイ御苦労様でした。