Back to 歴史SLG Back to 歴史評定

其の31




歴史評定 のお話 其の32


ちゃちゃおさん
E-mail:
chacha16@mug.biglobe.ne.jp

関ヶ原の合戦についてどう思われますか?

 天翔記PKで関ヶ原のシナリオでプレイしていて急に関ヶ原の合戦に興味を持ちだした「ちゃちゃお」です。

 歴史に対する知識が皆無の私にはほとんどわからない事ですが、福島正則・加藤清正を始めとする豊臣恩顧の武将はなぜ家康についてしまったのでしょうか?光秀が本能寺の変を起こした理由とともに戦国時代最大の謎の一つだと思います。

 石田三成が嫌いだった、ただの内輪もめのつもりだった、家臣達のためにも家の安泰をはかった、家康につけば加増が期待できるなどといった理由があったのでしょうが秀吉が知ったらさぞなげいた事だろうと思います。
 秀吉に取り立てられ秀吉がいなければ大名になる事すら出来なかった人々なのに、ほとんど全員が示し合わせたかのように徳川方についたのにはそれ相応の理由があったはずです。そうでなければ、加藤清正と福島正則などといった武断派の面々が東軍・西軍に別れて戦う事もありえたはずです。

 そもそも、三成が善人のように扱われている傾向が強いように思いますが、西軍が勝ったらば三成は豊臣を残すつもりだったのでしょうか?三成の人格面・能力面といった点も含めて、9月15日の戦いでの西軍勝利後の状況が私には全く思い浮かびません。

 みなさんはいかが思われますでしょうか?

baltanさん
E-mail:
kensakai@mbox.kyoto-inet.or.jp

関ヶ原の合戦について

大変久しぶりのbaltanです。
関ヶ原の合戦についてはいろいろ言われていますが、私なりに思っている事を書いてみました。

1)関ヶ原は「豊臣」VS「徳川」ではない! → 建前?
 ちゃちゃおさんの言われる「ただの内輪もめ」みたいなイメージですが、これは今(後世)から考えればこじつけのような気がしますが、当時の状況を説明するのには以外と当たってるのではないか?と私は考えています。
 関ヶ原の合戦そのものには秀頼母子は参加してないわけですし、西軍の名目上の?総大将と言われる毛利輝元も大阪城を動いていません。
 最も、これは家康の策略にはまったため、という話もあるようですが、あくまでも、どちらも豊臣家の家来である石田三成VS徳川の争い(私闘)で、豊臣家(秀頼)に弓引くわけではない、という動機づけがあったのではないかと思います。ただこれは建前で、本音の部分では以下の様な思いもあったのではないかとも思いますが。

2)尾張系と近江系の仲違い
 わかりやすく言えば石田三成と加藤・福島達が仲が悪かった、という事ですが、背景には秀吉の正妻北の政所と側室淀の方(秀頼生母)との関係も大きく影響してるのではないかと思います。
 この尾張系と近江系の主導権争いというのは昔からあったと思いますが、秀長や秀吉の死をきっかけに一気に爆発したんだと思います。
 これを家康がうまく利用した、と言う側面もあったと思います。

3)本当は家康の天下になることは覚悟していた? → 本音?
 ぶっちゃけた話、清正も正則もいずれは徳川の天下になる(ならざるを得ない、なってもやむを得ない)と思っていたのだと思います。なんといっても豊臣家の跡取りはまだ幼児ですから。信長の死後、(嫡男信忠は死んだとはいえ)成人した息子が2人もいながら秀吉が天下を取ったのは周知の事実です。
 徳川の天下になっても、どこかの領地を与えられて豊臣の家がなくならなければそれでよし(やむなし)と考えていたとしても不思議ではないと思います。

4)三成について
 私は、「三成が善人に扱われている」とはあまり思いません。
 後に徳川の世になったからかどうかは知りませんが、一般的なイメージとしては、決していいとは思いません。「戦を知らない文官」とか「秀吉/淀の方の取り巻き」みたいなイメージで語られている事が多いと思います。
 三成が豊臣家をどう思っていたかと言うことに関しては、よくわかりませんが、ただ秀吉の晩年において、三成が行政の実務を取り仕切っていただろうとは思います。
 関ヶ原後の天下のあり方も、彼の頭の中ではその延長線上だったのでは?
 とも思います。
 関ヶ原の合戦直前に、三成が例の小早川秀秋に対して「秀頼が15歳になるまであなたに関白(天下の仕置き)をまかせる」と言ったという話もあるようですので、うがった言い方をすれば飾り物の君主のもとで行政執行官として実務をとりしきる様な姿ではないのでしょうか?・・・と書きながらなんとなくこれが本当の三成の姿かどうかは疑問が残ります。「文官派」というイメージもほんとにそうなんだろうか?
 と最近思ったりもします。

長くなってすみません。みなさんはどう思われますか?

北条 氏政さん
E-mail:
pcyh@aa.mbn.or.jp

愚考

豊臣家と徳川家の戦いでない事は事実だと思います。
個人的な好き嫌いが、徳川家康に絶好のチャンスを与えたと言えなくも無いでしょう。石田三成は非常に優秀な官僚であった事は事実だと思います。ただ、文官でお寺育ちの三成は人を庇う事を知らず全て正直に報告したので、そこから武官達との軋轢が生まれたとされています。現在でも同じ会社で働いているにもかかわらず、現場の人間と事務所で働いている人間との対立をよく見かける。大きな工場になると極端になり、班同士の対立まで加わってくる。組織が大きくなればなるほどこのようになってくるのは当たり前であろう。英雄の後を継いだ秀頼は気の毒だったと言うしかない。せめて家康に預けられて育てられていたとしたら。

その後の結果は歴史の示す通りである。西軍をまとめられるのが三成しかいなかったのが不思議である。戦略には長けていたが、戦術は得意で無かったらしい。決戦に入る前のどたばた劇を見れば御解り頂けるのではないだろうか。敵の大軍を前に撤収するなど島津義弘で無くても呆れただろう。その後の布陣ぶりは天才的だった。なぜ負けたのか不思議なくらいである。事実東軍は何度も撃退されている。しかい机上の戦術だった。実戦経験に乏しい三成は裏切り行為が全体にどのくらい影響するか解ってなかった。仕方ないと思う。秀吉のもとに居たのだから。常に勝ちつづけてきたのだから。反対に武断派の連中は朝鮮出兵でかなり痛い目に有っている。家康は言うまでもない。長い事苦労してきた彼は、他の若い武将がどんな事を考えているのか手に取るように解ったに違いない。急所では随分やさしく接している。受けた恩は必ず返すと言う一本気な武断派達は、出兵による領国の疲弊もあって感激したに違いない。豊臣家の政治を仕切っている三成が何も援助しない事も有って一層溝が深まる事になる。

歴史にIFはタブーであるが、
もし金吾が東軍を襲っていたら?
もし上杉軍が江戸を襲っていたら?
もし関ヶ原に秀頼が出兵していたら?
と考えてしまうのは私だけだろうか。

isoさん
E-mail:
i-minoru@cic-kk.co.jp

関ヶ原ってむつかしい。

はじめまして。
ISO と申します。

関ケ原と聞いて、書き込んでしまいました。

最初に、私は三成派です。(郷土の英雄ですので)
三成派って少ないと思うので、「それは違うだろ〜」って意見もあると思います。
私の知識は三成側から得ていますのでご了承ください。


1.関ケ原は誰対誰?
これは、徳川家康(個人) 対 豊臣体制とみます。

実際は文吏派 対 武断派 の様相も強いのですが周知のとうり、関ヶ原の戦が起こるようシナリオを作っていったのが家康であるならば、彼の目的は政権簒奪でありその過程が関ケ原と言えるので、豊臣の内紛に乗じたと言うよりは豊臣に内紛を起こしたと言うべきだと思います。


2.関ケ原で西軍は勝ち得たか?
勝つチャンスがあったと思いますが、負けたのは家康と三成のいろんな意味での差でしょう。

そもそも、武将としての器や経験では、三成が勝つことなど考えられません。
三成派でも否定は無理ですね。

そもそも、あの時代に家康以上の戦巧者は存在せず、秀吉ですら戦って滅ぼすよりも和議を結ぶことを選んだほどの武将です。
前田利家も立ち上がることは出来ず、反家康同盟をまとめあげたのが19万石の三成であることは滑稽でさえあります。

ただし、勝つチャンスがあると思えるほどに関ヶ原まで持っていったのが凄いことだとは思いませんか?


3.三成像について
ご存知のとうり、三成は文官です。

戦略家として無能ではないとの意見もありますが、むしろ三成の才能は 「無知の知」 とも言うべき点にあると思います。
戦というものが苦手であるからこそ、島左近、蒲生郷舎、舞兵庫などの補佐官を求めたのでしょう。

ただ、三成の戦における才能はたぐいまれな後方支援能力に他ならず、陣頭に立つ人ではなかったと考えています。

私は、政治家として武将として不器用すぎるほどのまっすぐな姿勢が三成の魅力だと思います。

くどうさん
E-mail:
tkudo@pop06.odn.ne.jp

関ヶ原は誰対誰?

こんばんは、くどうと申します。
実際に史料を見たわけでもないし、その場にいたわけでもないのですが(笑)、ちょっとひとこと。
関ヶ原の前に、確か、三成が武断派に追われて家康の元へ逃げ込んだ事件があったように思います。
そこで家康は三成を丁重に庇護して、その上で「こうなった以上は佐和山へいかれたほうがよかろう」と、まったく正当な手段をもって、結果的に三成に奉行職を辞任させ、佐和山へ隠居させることに成功しているはずです。
ですから、関ヶ原の戦いは、実質上は徳川vs豊臣でしたが、見方を変えれば、豊臣家の奉行でもなんでもない三成が、一個人として勝手に豊臣家を語って起こした反乱、ととることもできたと思います。
豊臣家はその成り立ちゆえに譜代の臣は少なくて、ほとんどが利害関係で繋がっているだけで、従って福島正則ら子飼いの将さえ真っ先に家康につけばなしくずしに皆家康につくような状況だったと思います。
そのため、当然家康も、子飼いの将が真っ先に味方につくよう、あくまでも三成の私闘であることを強調するなどして、懸命に働き掛けたものと思います。
また、福島らにしても、家康が勝つ云々...より、三成を勝たせたくない、という気持ちがあったのではないかと思います。

三成が逃げ込んだときから(あるいはもっと前から)そういうシナリオを描いて手を打ってきたとすれば、ちょっと背筋の寒くなるような感じがしますね。
結局、三成は自分の意志で動いているつもりが、家康の掌から出れなかったのではないでしょうか。

二ノ宮 恵さん
E-mail:
kei_ninomiya@excite.co.jp

国府台の合戦について。

国府台の合戦は北条氏と里見氏の間で繰り広げられた、関東の関が原とも言える合戦です。
その舞台となったところは千葉県市川市国府台から市川にかけてです。
地元の人たち(私も含めて)がその坂を登るだけでバス代が50円上がることから、”50円坂”と呼んでいる坂です。
里見氏がこもった国府台城は背後に江戸川を背負い、かつては古墳だった(!)土地に立てられた要害です。
現在は里見公園という桜の名所になり、城郭の跡形もないのですが、人目で堅城であることがわかる地形です。
かなり大きな合戦で、1次、2次とあったのですが、どうも忘れられがちなようです。
里見氏事態忘れられているのかな?
ちょっと寂しく思う地元民からの一言でした。
知っている人、特に深くつっこんで知っている人がいたら返事書いてくださいね。

さとしさん

関が原

はじめて、掲示板へ投稿するさとしです。関が原の合戦について、様々な意見、とても興味を持ちました。
そもそも石田三成が云われる文官としてのイメージの事ですが、彼は政治屋としての力量もさることながら、合戦の采配力も人並み以上にはあったと僕は思っています。なぜなら、合戦直前の豊臣勢の諸隊の配置は徳川軍を包む様にしていた所からも、勝敗の決した大谷隊の壊滅後、最後まで持ちこたえたのは石田隊だったといいます。家康は福島隊の独断先行の為、その中央へ進軍するのですが、まわりの豊臣勢を篭絡していたとはいえ、彼ほどの武将がまるっきり真に受けていたとは、とても僕には思えないのです。できれば、後方の秀忠の軍と合流してから、決戦を迎えた方が好ましかったのではないでしょうか。結果的に徳川軍は勝利しましたが、それを僕達、現代人は知識として楽しむ事が出きるけど、当自身の家康は暗中模索の心境であった思います。
最後に三成が各地で戦功を立てたという史科も残っています。

hidenosukeさん
E-mail:
hidemakimoto@livedoor.com

三国志の嫁取りって?

曹爽一族が誅殺された後、夏候覇が蜀へと亡命したのは、張飛の側室が夏候覇の妹で、その娘が劉禅の后であったためだといわれていますが、いったいなぜ張飛はそのような女性を側室にしたのでしょうか?

考えてみれば曹丕(魏・文帝)も袁尚の妻を奪って嫁にしていますし、呂布の徐州城落城の時関羽が呂布の配下の何とかという武将の妻を略奪する許可を曹操に求めています。

従って定軍山の戦のときに張飛が死んだ夏候淵の娘を奪ったというのが一番妥当なラインのような気がしますが、そもそも夏候淵ともあろう者が最前線の要塞に家族を連れていく様なことをするかと考えると、これも違うような気がします。

というわけでどなたか教えていただけませんか?

武田四郎さん

勝頼と秀次

最近、新田次郎の「武田勝頼」と渡辺某の「封印された名君、豊臣秀次」を読んで二人がなかなか優秀な将だと書いてあったのですが皆さんはどのように思われますか。

山田みち江さん
E-mail:
hidemakimoto@livedoor.com
HP:陶龍寺〜尾張瀬戸海上の森、隠された歴史の地〜

武田信玄公の墓

はじめまして。
わたしは、愛知県瀬戸市海上の森の陶龍寺山田といいます。
ここ愛知県瀬戸市海上の森は、2005年の万博予定地で、また宅地開発のターゲットとなっており環境破壊の危機にさらされています。一般にはあまり知られていませんが、海上の森には自然ばかりでなく、多くの史跡が遺されています。これらの史跡は、正式な調査がなされる前に、開発によって葬られてしまう危機に瀕しています。
海上地区に遺された史跡や尾張に隠された歴史について、一人でも多くの方に知っていただくべく、陶龍寺では活動をしています。

武田信玄公の本当の墓はここ瀬戸海上に隠され続けられてきました。

海上の森周辺にはいくつかの史料や史跡(武田信玄公ゆかりの地であったこと)が残されています。

 *海上の森に甲斐信玄城跡と記されている古地図がある。

 *ここの場所から2キロ離れたところに武田信玄の供養塔が建っている。

 *同じ場所に信玄家臣山本勘助四代孫が建てた供養塔も残されている。

 *また違う方角に“諏訪の尾神社”と印されている石が建っている。

 *この場所から側室あかね姫の墓石(慶長三年三月四)がみつかった。

信玄、西上途中他界

一般的には武田信玄は、野田城攻略の後、甲斐へ退き返す途中、駒場【こまんば】にて死去したとされています。

実は武田信玄公の本当の墓はここ尾張瀬戸海上にあります。信玄はここまで来ています。
野田城攻略後、足助城を通りここ尾張瀬戸物見山に入りました。しかし、野田城攻めのとき目に負傷を受け、それがもとで高熱が出て他界した。
余が死んだら三年間 死を秘めておけという遺言を残している話は有名ですが、墓も隠されていました。


消えた史跡の表示

物見山にはかつて(万博が決まる前まで)案内板がたてられていて、史跡として武田軍の紹介がされていましたが、現在では看板ははずされてしまい、標高の表示が残っているだけです。瀬戸市の調査では、物見山には「史跡なし」としています。では、この案内にあるいわれには根拠がないのでしょうか?石組みなどを見ても明らかに人為的なものです。十分な調査のもとに「史跡なし」と判断したとはとうてい思われません。

待たれる正式調査。行政による隠蔽疑惑

ここ海上には、信玄公側室あかねの墓碑という決定的な物証や、また信玄公が晩年尾張に至ったことを示す古文書などが残っているにもかかわらず、愛知県や瀬戸市による正式な調査は未だ行われていません。 調査の要求に対しても、調べる前から「史跡はない」との一点ばりの対応をとりつづけています。ここ海上が十年前より宅地開発のターゲットとなっており、文化財などが今更でてきてほしくないというのが本音なのではないでしょうか? 信玄公の本当の墓地がここ海上にあることが証明された場合、これは文化財の隠蔽として、文化財保護法に対する重大な違反行為となると思われます。信玄公の本当の墓所が正しく証明され、大切な歴史文化として保護されることを願ってやみません。
この歴史の地がきちんとした形で立証されなければ、この地で予定される愛知万博や宅地開発によって歴史がふたたび闇に葬られてしまうという危惧を強くいだいております。

ちゃふさん
E-mail:
fwkk6611@mb.infoweb.ne.jp

劉備に疑問あり

はじめまして、ちゃふと申します。
三国志といえば劉備は有名どころですが、実際どこが優れていたのでしょうか?
貧しい農村暮らしから蜀を建国するにまでに至った事は凄いと思います。
が、なぜそこまで成功したのでしょうか?。一般的?な意見としては孔明を陣営に迎える事ができたとか、人徳(魅力)があったからと言われていますが、魏も呉も数多の勇将・知将を揃え、曹操にしても孫権にしても人徳という点については劉備にひけをとらないと思います。それにも関わらずなぜ劉備は天下三分と言われるまでに成長したのか不思議でなりません。
みなさんの意見お待ちしています。

堺の偽わじゃじゃっちゃんさん

羽柴秀勝について

簡単ですけど羽柴秀勝について教えて下さい。早死にしたそうなのでぜんぜんみかけません。父親の織田信長や養父の羽柴秀吉と違って情報がすくなすぎ・・・・

yuzyさん

フィレンツェの世界

 私はイタリアの歴史、特に中・近世史に興味があり、フィレンツェの歴史の本をたくさん読んでいます。イタリア中・近世史において短いながらも輝いていたこの街の歴史は,社会・政治・経済的背景を抜きにしては語ることは出来ません。このように「ルネサンスの都」と言われ、のちの西洋美術に多大な影響を与えた街の時代的背景についてひとこと言ってみたい事のある方はぜひ返事をください。またルネサンスに興味のある方もぜひ様々な意見をください。

其の31