ちゃちゃおさん
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HP:なつかしのゲーム
天翔記結果報告 武田信玄 第1回
この物語は山深い国の青年武将が天下人となるまでの記録(となるはず)である。
第1章 侵攻開始
1546年春、甲斐の国では群臣が一同に集結して軍議が行われていた。議題は信濃侵攻策。ある者は内政を充実し調略を行ってからの侵攻を献策し、ある者は相模の北条(友好度20)の脅威を説き、別のある者は「小笠原・村上などおそるるに足らぬ。力攻めあるのみだ。」と主張した。
軍議は長時間にわたり行われたが、「内藤・高坂・真田・秋山は甲斐で内政。小山田は岩殿山城にこもり北条勢をけん制。残りの者は農村から兵をかき集め諏訪湖のほとり上原城に集結せよ」との指令と共に終了。
ここに、武田家の統一への歴史が始まることになった。
第2章 小笠原家滅亡
諏訪氏・高遠氏を滅ぼすなどして、すでに信濃の南東部を制圧していた武田晴信だが、どうしても除かねばならない邪魔者がいた。信濃守護の小笠原長時と北信濃の雄・村上義清である。武将の能力ではこちらがまさっているものの、兵力では村上・小笠原両家をあわせれば武田と互角。火計の使い手も多く、手痛い敗北を喫する可能性すらある強敵だ。
扇谷上杉・今川との強固な同盟により背後の安全が確保されている武田勢は、北条への備えとして小山田信有を岩殿山城に残しつつ、残りの全兵力で信濃の中核とも言える林城に侵攻。村上勢も援軍に来はしたが、板垣・甘利ら重臣が率いる騎馬隊による強襲で難なく撃破し、本丸にこもる小笠原長時隊も騎馬隊の突撃や一斉攻撃であっけなく撃破。
さらに余勢をかって、援軍の派遣元である村上勢の2城も攻略。村上勢の領土は義清自らこもる志賀城のみとなり、武田勢は早くも信濃を我が物とした。
時は1547年春、武田晴信27歳の時のことであった。
第3章 上州進出
春の戦いで志賀城に70の兵を残すのみとなった村上軍。回復のいとまを与えてはならじと、武田勢280が攻め込んだ。楽勝かと思われたのだが、上杉憲政が170の援軍を派遣。接戦の様相を呈してきた。
上州勢がたどりつけば厄介な事になると思った晴信は騎馬隊による志賀城への突撃を指令。兵力差に物を言わせて強引に攻略してしまい、その後上杉勢と戦おうという考えだった。
だがここで、老臣板垣信方が「お館様。村上義清は火計の使い手と聞きます。正面から攻めたところで、猛火に阻まれて多くの兵を失う事になります。ここは搦め手からも同時に攻めかかり、村上勢に火計のいとまを与えぬ事こそ肝要かと思われます」と進言。
これを受けて晴信は、正面からは武田晴信・甘利虎泰、背後からも板垣信方・横田高松という布陣で志賀城本丸への攻撃を開始。足軽による一斉攻撃と騎馬隊による突撃の連続の前に村上義清はあっけなく滅亡した。
こうなるとあわれなのは、上杉憲政である。関東管領の名にかけて村上勢を救おうと出陣したものの、武田家が志賀城を攻めている間は手をこまねいて傍観しており、落城後、勢いに乗る武田家と戦闘。だが、城を攻略し活気づく武田勢と目の前で敵の勝ち戦を見て怖じ気づく上杉勢では勝負になるはずもなく、長野業正の奮闘などはあったものの、騎馬隊の突撃の前にあっけなく全滅。余計な戦争を挑んだがために沼田城まで攻略される事態になってしまった。
おそれをなした上杉憲政は同盟の使いを武田家に送ってきたが、半分の兵も持たぬ弱小勢力と同盟を組む気などない晴信はにべもなく拒否。
長野業正が武蔵に行っており参戦できない時を狙って上野の3城を攻略し、甲斐・信濃に続いて上野を平定した。
第4章 次はどこだ?
早くも3国を領有する事になった武田勢。板垣信方・甘利虎泰といった熟練の老臣達が健在であると同時に飯富昌景・馬場信春といった素質にめぐまれた若手武将も急成長。内藤昌豊の指揮による甲斐や信濃での内政も順調に進んでおり、経済的にも万全の状態。
次に戦うのは越後の長尾か、美濃の斎藤か、それとも関東北部を突き進むのか? ・・・ 続きは次回とさせていただきます。
今回のプレイ時間 : 120分
P.S. 歴史SLGに投稿するのは久しぶりです。ホームページ作りも一段落つきましたのでまた時々投稿しようかと思っております。三国志6が発売されたら、韓玄でのリプレイでもやってみようかなと思っています。