乙三さん
Hiro.Kさん、ありがとうございます。図に乗って再び自説を述べます。
世に名高い"長篠の合戦"では、3段銃陣とでも申しましょうか鉄砲隊3列交互射撃の戦術を信長が考案し実行したため織田徳川連合軍の快勝に終わったとされています。
この3段銃陣については、これまではコロンブスの玉子すなわちタネをあかせば何でもないことだが、画期的な発見例としてだけ取り上げられてきたように思われます。
しかし3段銃陣が考案される以前にも鉄砲を効果的に使う戦術があったにもかかわらず、なぜ信長は3段銃陣を選んだのか?と考えると、簡単にコロンブスの玉子疑問がわいてきませんか。
当時、鉄砲戦術の先進者は雑賀党であり、その戦術とは4−5名が1チームになり、うち1名が射手で他は弾込めにあたり、射手が疲労したり負傷したりすれば間を置かず交替し、効果的な狙撃を持続したとされています。
おそらく射手を除く兵士のうち1名は観測手(目標を選んだり、射撃効果を観測して同じ標的を射ち続けるか別の標的に替えるかを判断する係)を務めていたのではないでしょうか。
この編成は合理的で、近代陸軍に於ける機関銃や対戦車砲の射撃班とも酷似しており、兵士の大半が高水準の射撃技量を持っていたならば対抗し難い火力を発揮したと考えられます。
信長は、長篠戦以前に対長島願証寺戦や対石山本願寺戦で一向一揆に加勢した雑賀党に苦戦させられていますから、雑賀党の戦術を充分に研究分析していなかったとは思われません。
実利的・実証的な思考性を持つ信長のことですから、実戦で雑賀党の戦術を模倣・実験すらしたに違いありません。
それにもかかわらず信長は3段銃陣を選択した訳なので、このように考えるとコロンブスの玉子疑問がご理解いただけるかと思います。
さて以下の2つが私が推理した答えです。結論を先に言うと信長は鉄砲の射撃の目的を狙撃から公算射撃による一定地域の制圧に転換した、言葉を換えれば鉄砲の用途を狙撃銃から火砲に改めた、それが1つ。
もう1つは織田家の鉄砲足軽の平均的射撃技量が雑賀党に遠く及ばなかったため、雑賀党の戦術を全面的に採用することが適わなかった。
つまり雑賀党の戦術はスペシャリストでなければ効果を発揮し得ない戦術だったということです。
日増しに増強されつつある織田家の鉄砲隊では(古参の鉄砲足軽は他の大名に較べれば優秀だったと思いますが)技量に劣る新兵が大きな割合を占めていたため、雑賀党の戦術を採用しても未熟な射手の時は火力が激減し、そうかといって熟練者ばかり射手にしていれば新兵の技量が向上しないし、熟練者の数も充分な訳ではない。
そこで鉄砲足軽1人1人の狙って撃った弾がより確実に標的に命中することを半ば諦め、標的の周辺あるいは複数の標的がいる一定の区域に数10発の弾丸を一時に撃ち込むことによって、命中確率を上げあるいは射撃効率を上げることを図ったのではないでしょうか。
仮に「何間の距離から1回の一斉射撃で必中を得るには何挺の鉄砲が必要か?」という計算がなされていたなら、これはもう近代砲術に於ける公算射撃と同じです、そこまでやってたとは流石に思いませんが。
雑賀党を除けば(九州の諸大名は知りませんが)、長篠戦以前では鉄砲の集中使用といっても部隊長は狙うべき大まかな方向と射撃の開始・終了を命ずるだけで、その間は射手が各個に射撃していただけではなかったでしょうか。
それと、この戦術は密集突撃を仕掛けてくる敵軍に対して最も効果的です。
拙い想像ですが、組頭の号令「構えーっ、正面、赤い甲冑を狙え。・・・放てっ!」轟音。
唐突に前のめりになった馬、転がり落ちる武者、その前後左右の歩卒が仰向けに倒れる・・・。
「次ぃ!」鼻をつく硝煙の中、陣笠の横列が慌ただしく入れ替わる。
「構えーっ、正面左、六文銭の旗差し物」という具合に戦いが進められたのではないでしょうか。
長篠戦では、武田方の密集隊形による波状突撃を如何にして阻止するかが課題になっていた訳で、馬止め柵や鉄砲隊を3段構えにして交互に射撃させるなどの工夫については世間からも順当に評価されています。
さらに付け加えれば、3段銃陣は雑賀党の戦術よりも新兵の射撃技量を高めやすいという点で優れていたと考えられます。 弾込めは気持ちの上でも面倒臭い作業だったでしょうが、それだけに自分が込めた弾は大事に狙って撃つし、他人が込めてくれた弾は得手仕手いい加減に撃ってしまう傾向があったのではないでしょうか。
また射手がベテランならば問題にならなかったでしょうが、接近戦や鉄砲隊同士の射撃戦になってくると経験の浅い射手はにかく撃って、早く頭を引っ込めたい」とばかりにろくに狙いもせずに引き金を引いていた事例が見られたのではないでしょうか。
恐怖心を克服させるために号令に合わせて集団行動をとらせるという方法は今も昔も効果があります。
贔屓目かも知れませんが、信長はそこまで計算していたんじゃないかと半ば信じております。
長くなりました、ではこれで失礼。 かしこ
|
宇喜多秀家さん
せっかく読んだので、私の見解を書いておきます。
まず、我々が、人の名前を耳で聞いて文字に起こしたとします。その場合、正確な表記をどれだけの人が行なえるでしょう?通常表記を行なう場合、自分が最も良く知っている、あるいは触れている字で通常書きます。ですから、どれが正しいということはないのです。
宇喜多にしても、書物(もちろん、学者が参考にしているもの)によっては、「浮田」や「宇喜田」などになっています。ただ、多く出てくる文字、あるいは、書簡等に出てくる文字が「宇喜多」であるので、そうなっています。(宇喜多氏は確か三宅氏が先祖なので、本当は三宅が正しいのかもしれません。)
ですから、一概にあれが正しいとか、これが正しいなどとは言えません。私はそう思います。
さて、堅い話はこの程度にして、竹中半兵衛重治、いいですね。「軍師 竹中半兵衛重治」はもちろん読んでます。この小説、「賢愚の岐路 浅井長政」(だったかな?)と対になった小説でこの2冊を対比させながら読んでいくと、面白さが倍増します。笹沢佐保の回し者ではないですが、ぜひ一度やってみたらどうでしょう。
あっ、信長が私を呼んでいるのでそれでは。
|
青江又八郎さん
キョウドウさん
功名ヶ辻、私も同感で楽しみに見ています。
合戦シーンが他のドラマの映像の流用なのがご愛敬です。
原作物のテレビドラマは不愉快な気持ちになることの多いとのですが、これは素直に見られて好感が持てます。
皆さんも一度ご覧になってはいかがですか。
|
かげさん
立花宗茂のことについてどなたか詳しく知りませんか?
うわさはよく聞くのですが彼のことについて特別に取り上げた資料になかなか出会えません。「真田昌幸・幸村らと同様、宗茂が関ヶ原の現場にいたら家康もどうなっていたかわからない」(by 池波正太郎)というのは本当ですか?
|