三郎信長さん
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HP:信長・友の会
>稲富忠勝さん
まずは楽市楽座について
> 信長はまだ商品経済への過渡期であった戦国時代に尾張、安土で
> 楽一楽座をしています。
楽市楽座:
楽市とは言ってみれば無税で商売して良いということですが、商品経済の繁栄ぶりを目の当たりにしていた信長が、金づるをみすみす見逃すはずがありません。
楽市楽座を実施したところは、美濃・加納(岐阜城下)と近江・安土の二カ所だけです(確認されているところという意味で)。
この二カ所はご存じの通り信長の居城であったところで、都市づくりの一環として(首都としての人集めのため)行ったのだと思います。
楽座の「座」は同業間の今で言うカルテルみたいなものですが、信長発給の「座」への安堵状が多数確認されています。
当時の税金体系がどの様になっていたのか私自身勉強不足ですが、楽市を行った都市の商人からどの様に金を吸い上げていたのか今後確認していきたいと思います。
(知っていらっしゃる方は教えて下され!)
つぎに信長の天下掌握後の支配体制についてですが、
1.身分制度:
信長ほど農民から苦しめられた大名はなかったと思います。その代表例は一向門徒の一揆です。
それと、宗教者の宗教者らしからぬ政治への関与(比叡山、石山本願寺など)は徹底的に弾圧していました。
それから類推するに、秀吉の行った刀狩以上の身分の明確な区分化を行っていたと思います。
但し、秀吉・家康との違いとして、身分の垣根を越えることを許したのではないかと思います。
事実、信長は相撲を行わせ成績優秀者を取り立てています。
このほか、ある技に秀でた人に対し「天下一」の称号を与えていましたので、その身分内で競わせる工夫も行ったことでしょう。
この工夫だけでも暗い日本人を作った江戸時代とは比べものにならない違いがあると思います。
2.商人(座)に対して:
信長の代表的な戦いに「長篠の戦い」がありますが、そこで大量に使用された鉄砲の火薬の原料である「硝石」はほぼ全量輸入品です。
信長が本能寺に斃れた当時ですら外国商人との直接取引を行う港はなく(堺は瀬戸内を押さえている毛利に遮断されれば、無意味)、そう言った意味からも信長は商人に対し妥協せざるを得なかった状況でした。
それが座を生かした理由の一つではなかったかと思います。
(このほか税金を座から取っていたため???)信長と外国との道が繋がったとき、或いは完全に天下を掌握した時には、あれだけのアイデアマンですので大規模で凡人の思いも付かない改革を断行したことでしょう。それがどういう形だったのかは凡人の私には判りません。(ちょっと逃げ・・・。)
3.海外進出について:
信長は、戦いにおいては「やる」と判断した時は、電撃的にすさまじい速さで行軍(朝倉滅亡時の越前遠征などは秀吉の中国大返しの速さに引けを取っていない。)していますが、「やる」と判断するまでは慎重すぎるほど慎重で、様々な手を打ってから戦を行っていました(除く元亀年間)。
このような信長でしたから、朝鮮・中国への出兵は「やる」にしても時間を掛け(もちろん天下布武前から情報収集は行っていたと思いますが)様々な手を打つことでしょう。
その情報収集中に中国///明が動くと判れば、秀吉のような無謀な戦は行わなかったと思います。
但し、中国の影響の少ない南方(例えばタイ辺り)には出兵していたかも???(後は寿命との戦いか?)
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