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其の10

其の12




歴史評定 のお話 其の11


三郎信長さん
E-mail:nari@a2.mbn.or.jp
HP:信長・友の会

>稲富忠勝さん

まずは楽市楽座について

> 信長はまだ商品経済への過渡期であった戦国時代に尾張、安土で
> 楽一楽座をしています。

楽市楽座:
楽市とは言ってみれば無税で商売して良いということですが、商品経済の繁栄ぶりを目の当たりにしていた信長が、金づるをみすみす見逃すはずがありません。
楽市楽座を実施したところは、美濃・加納(岐阜城下)と近江・安土の二カ所だけです(確認されているところという意味で)。
この二カ所はご存じの通り信長の居城であったところで、都市づくりの一環として(首都としての人集めのため)行ったのだと思います。
楽座の「座」は同業間の今で言うカルテルみたいなものですが、信長発給の「座」への安堵状が多数確認されています。
当時の税金体系がどの様になっていたのか私自身勉強不足ですが、楽市を行った都市の商人からどの様に金を吸い上げていたのか今後確認していきたいと思います。
(知っていらっしゃる方は教えて下され!)

つぎに信長の天下掌握後の支配体制についてですが、

1.身分制度:
信長ほど農民から苦しめられた大名はなかったと思います。その代表例は一向門徒の一揆です。
それと、宗教者の宗教者らしからぬ政治への関与(比叡山、石山本願寺など)は徹底的に弾圧していました。
それから類推するに、秀吉の行った刀狩以上の身分の明確な区分化を行っていたと思います。
但し、秀吉・家康との違いとして、身分の垣根を越えることを許したのではないかと思います。
事実、信長は相撲を行わせ成績優秀者を取り立てています。
このほか、ある技に秀でた人に対し「天下一」の称号を与えていましたので、その身分内で競わせる工夫も行ったことでしょう。
この工夫だけでも暗い日本人を作った江戸時代とは比べものにならない違いがあると思います。

2.商人(座)に対して:
信長の代表的な戦いに「長篠の戦い」がありますが、そこで大量に使用された鉄砲の火薬の原料である「硝石」はほぼ全量輸入品です。
信長が本能寺に斃れた当時ですら外国商人との直接取引を行う港はなく(堺は瀬戸内を押さえている毛利に遮断されれば、無意味)、そう言った意味からも信長は商人に対し妥協せざるを得なかった状況でした。
それが座を生かした理由の一つではなかったかと思います。
(このほか税金を座から取っていたため???)信長と外国との道が繋がったとき、或いは完全に天下を掌握した時には、あれだけのアイデアマンですので大規模で凡人の思いも付かない改革を断行したことでしょう。それがどういう形だったのかは凡人の私には判りません。(ちょっと逃げ・・・。)

3.海外進出について:
信長は、戦いにおいては「やる」と判断した時は、電撃的にすさまじい速さで行軍(朝倉滅亡時の越前遠征などは秀吉の中国大返しの速さに引けを取っていない。)していますが、「やる」と判断するまでは慎重すぎるほど慎重で、様々な手を打ってから戦を行っていました(除く元亀年間)。
このような信長でしたから、朝鮮・中国への出兵は「やる」にしても時間を掛け(もちろん天下布武前から情報収集は行っていたと思いますが)様々な手を打つことでしょう。
その情報収集中に中国///明が動くと判れば、秀吉のような無謀な戦は行わなかったと思います。
但し、中国の影響の少ない南方(例えばタイ辺り)には出兵していたかも???(後は寿命との戦いか?)

奇妙丸さん
E-mail:sfuku@mxi.meshnet.or.jp

「小田一族」の後半です。

小田孝朝1337-1414
知久の長子。父の北朝への転向に従う。
1352 新田氏討伐に参陣。以後も南朝征伐のため各地に転戦。
1363 越後守護代芳賀禅可を討つ。
1387 「若犬丸の乱」管領上杉朝宗が小田城を攻める。(鎌倉公方足利氏満が命じる)
   孝朝は宍戸男体山に籠もる。戦闘は翌年に及ぶ。
   将軍足利義満の仲介で助命。しかし、領地は縮小される。
なお文武に優れた彼は、新千載和歌集・新拾遺和歌集の和歌各1首、小田流剣法でも知られている。

小田治朝1363-1403
孝朝の長子。若犬丸の乱の敗北で那須氏に預けられる。
その後、応永の乱に従軍したという。家督を継いだかどうかは不明。

小田持家1402-1487
治朝の長子。祖父以来の失地回復に務めるが成果がなかった。
1416 「上杉禅秀の乱」では足利持氏を警護
1440 「結城合戦」上杉清方の旗下として参陣する

小田朝久1417-1455
持家の長子。
1455 鎌倉公方足利成氏と管領上杉氏の対戦に公方軍として参加する。が戦死する。

小田成治1449-1514
朝久の長子。父の戦死のため祖父の養育後に家督を継ぐ。
足利成氏に従って、上杉領となっていた旧領に攻め込み一部を回復。
1481 佐竹重臣江戸通長に敗退。
1496 長男の治孝が次男の顕家に殺され、顕家も治孝の家臣に殺される。
   家名存続のため堀越公方足利政知の子を養子に受ける。

小田政治1492-1548
足利政知の3男。出自から古河公方とは対立していたが和睦、
佐竹義篤とも旧交を回復したが、上杉氏とは対立。
1531 石岡鹿小原で江戸氏を破る。
1537 多賀谷氏と同盟し結城政勝攻略を企図するが失敗。
1541 芳賀高経を誘殺。
1546 「川越合戦」で古河公方足利晴氏を支援。

非常に簡単にまとめましたが、以上で「小田氏治」以前の武将については終わりです。
時間が余りなかったので間違いがあるかもしれません。
風柳斉殿の先祖は苦労人が多いですね。鎌倉幕府では重要人物だったんですね。
受験生諸君は要チェックだ。特に「八田知家」は・・・。
また調べてほしい武将がいましたら、Eメールか此の場所にて文をください。
しかし「○○一族」だけは勘弁してください・・・。疲れました。(ToT)

図書館で調べているときに「織田信忠」についての論文をいくつか見つけました。
次回はそれらの論文などを参考にして「信忠」について発表したいと思います。

P.S.
稲富忠勝殿へ
Eメールありがとう御座いました。返事を送ったのですが、届きましたでしょうか?。

宇喜多秀家さん
E-mail:chacha@cc.rim.or.jp

備前軍記(山陽新聞社刊)をやっと読み終えました。
内容は、宇喜多氏と浦上氏の抗争とそれを取り巻く、サイショ氏、赤松氏、松田氏、三村氏などの攻防を支配者階級(武士階級)の目から見て書いてあります。
視野が備前一国に限定されている分(一部播磨国を含む)、なんか、すごい現実的で、
「こんなふうにして城とりをしていたのか。」
などということが追体験(大袈裟ですね・・・)できた感じです。

そうそう、それから、「津軽風雲録」読みました。新鮮な感じがしました。やっぱり、方言で会話が書いてあると、なんか読んでるうちに、その人になったような気がして、面白い!
たしかに、読みにくかもしれないけど、それがいい!NHKも完全な方言でやって欲しいですね。
例えば、

(雪が高橋の城にいてびっくりした元就)
「わしゃ、たかはしんとけーかえっとるたーおもわなんだんじゃ。うちーけーってくれんかいね。」
(雪)
「いやじゃ。けーでもーりのやくにたてるんじゃけーえーんじゃ」

などのように・・・。(?o?)

今、松永久秀の本を読んでます。(津本陽さんの本)彼の裏切り、いいですね。
「生きてるうちに、たのしまな」
という言葉が随所に出てきますが、出てくるたびにうなずいてしまいます。

なんか、へんな文書になりまして、すみません。

でわまた!

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