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其の11

其の13




歴史評定 のお話 其の12


奇妙丸さん
E-mail:sfuku@mxi.meshnet.or.jp

信長公の嫡子「織田信忠」について、少し調べたので発表したいと思います。
調べていくにつれ、彼がかなり早い時期から織田家の中で活躍していたことが判りました。
今回は織田家家督を継ぐ所までをまとめました。
どのようにまとめたら良いのか迷いましたが、彼の事歴を追って年表形式にしました。
(西暦の後ろの数字は彼の年齢です。またカギカッコのある戦には信忠は参戦していません)

西暦年齢出来事
155701信長の長男として生まれる。幼名「奇妙丸」母は生駒家宗の娘、吉乃。
1560045月「桶狭間の戦い」
1567118月「岐阜城改名」
11月、武田信玄の娘と婚約。信長入京の準備と思われる。
1568122月、三男信孝が神戸の養子となる。
9月、信長が上洛する。
15691310月、次男信雄が北畠の養子となる。
12月、岐阜でフロイスらを招いた際、父の傍らに座る?
1570146月「姉川の戦い」
1571155月、氏家ト全が長島で戦死。彼の所領の一部を継ぐ。
9月「比叡山焼き討ち」
1572167月、初陣。江北に出陣する。
12月「三方ヶ原の戦い」
1573177月「室町幕府滅亡」この頃元服し「勘九郎信重」と名乗る。
1574182月、東濃の明智城救援。しかし勝頼に奪われる。河尻と恒興を残して帰城。
6月、遠江の高天神城後詰め。これも勝頼により陥落。
7月、長島攻めに従軍。宿将達とは別に軍団を与えられる。
1575193月、勝頼が三河足助口に侵入。尾張衆を率いて出陣。初の父から離れた軍事行動。
出陣前に「出羽介」に任官している。
5月、設楽ヶ原に父と共に参陣。
6月、岩村城攻めに出陣。秋山信友の夜討ちを退け逆にこれを落とす。(11月21日)
11月7日、岩村城包囲中に「秋田城介」を拝命。信長は右大将拝任。、
11月28日、父より織田家家督を譲られ、尾張美濃二カ国と岐阜城を譲渡される。
同じ日に信長は東国大名に対し武田氏討伐の宣言と服属を要求する書状を送る。
1576201月、安土城の普請が始められる。

「信忠」が20才に成るまでまとめましたが、彼の「織田軍」の中での役割は主に東の武田勝頼に対する押さえでした。そして見事にその任務を果たしているといえます。
また「信忠軍団」は1574年に編成されましたが、一国以上を規模とする大軍団の中では、最も早く成立しています。
本能寺まで後6年・・・。もうちょっと活躍してほしかった人です。

真田幸隆さん
E-mail:teraska@mx6.meshnet.or.jp

初めまして、真田幸隆と申します。
右府様にハマッてから4,5年経つでしょうか。恐れ多くて右府様の御名は語れなかったので最近ハマり始めた一徳斎様の御名を拝借致しました。
真田幸村の書物はたくさん有りますが、幸隆の書物はなかなか見あたりません。さらに古い時代のことはわかりませんが、当時の海野一族のなかでは、幸隆は傑出した人物、いわば突然変異みたいな人物だったように思えます。彼について大体のことはわかってきたつもりですが、幼年期(元服前)については全くわかりません。どなたか知ってる方、もしくはそれについて書いてある書物を知ってる方ぜひぜひ教えて下さい。
・・・ん、なんじゃ騒がしい!なに?敵襲!!!よし、迎え撃て!
村上軍が攻めてきたようでござる。それでは・・・・・

才蔵さん

真田ネタとあっては、黙っておられようか!
幸隆でございましたな。拙者の蔵書(あまりありませぬが)の中では、人物叢書「真田昌幸」吉川弘文館が一番詳細なようなので、その範囲でかい摘んで・・・

・永正十年(1513)生まれ、天正二年(1574)病死。

・幼名を二郎三郎といい、後に源太佐衛門と称した。
(「真田一族と家臣団」)

・幸隆の父は海野小太郎棟綱。
ただし、棟綱の嫡男の幸義が天文十年五月の海野平の合戦にて討死に、女婿の幸隆が後を継いだとされています。
(白鳥神社系の海野系図、甲陽軍艦、共に異なる記述あり)

・現存の系図すべてが幸隆となっていますが、「高野山蓮華定院過去帳」などでは、幸隆の名は見られず、幸綱となっています。すくなくとも永禄五年までは幸綱を名乗っていたようなので、晩年に幸隆と改名したと思われます。

・出家名、一徳斎。武田晴信の出家改名時に、信玄にならって出家したとの説が有力。(「甲陽軍艦」)
上記書物には四十頁程書かれておりましたが、拙者の文才では上手くまとめられそうにありません。ここらあたりでお許しを・・・。

既に読まれたかも知れませぬが、別冊歴史読本「真田一族のすべて」新人物往来社が詳しいかも知れませぬ。拙者は不覚にも持っておりませぬので、責任は持てませぬが・・・。

最上家親さん
E-mail:teraska@mx6.meshnet.or.jp

雑賀孫市にとても興味があります。
信長の野望の武将列伝では、鈴木秀重.鈴木兼頼が雑賀孫市であるとあり、割と史実に忠実な司馬遼太郎さんの本を読むと、秀吉が金ヶ崎城の殿を引き受けたとき一緒に従軍して活躍したり、信長の紀州攻めの時、毛利と組み撃退したり、武勇絶倫でそしてどこか憎めない田舎武将のようにかいてありました。
はたまた、ネット上、孫市について、和歌山の人に尋ねると司馬さんの小説は架空の話であり、どちらかというと、現実的な政治家で、人気があるのは、気持ち悪い気がすると言ってました。
ますます謎が深まるばかりです。メジャ−な戦国武将については、自分なりに見解があり把握できているのですが、どうしても、孫市ついては、何とも言えない神秘的なものが残ります。
孫市について知っている方がいましたら、教えていただけないでしょうか。

マモルさん

マモルでござる。
う−む、ここに来るのは初めてじゃな、折角じゃから何か書いておくかの。
鍋島直茂についてじゃ。
鍋島直茂は最初、鍋島信生と号し、鍋島清房と竜造寺家兼の子、家純の娘との間の子である。つまり、隆信の従兄弟となるのじゃ。その後、隆信の母、つまり、竜造寺周家の未亡人が無理矢理 清房に輿入れしたため、隆信と信生は兄弟となったそうじゃ。このご母堂には先見の明があったとしかえ言えぬ。後の竜造寺、鍋島藩を見れば明らかじゃ。
ここに、面白い話がある。

1556年(永録9年) 大友の臣 高橋鑑種が秋月種実と示し合わせて反逆を起こした。それに対して大友が出兵するのだが、毛利が現れてうまく行かない、そこで、1559年(永録12年) 分国に回文をまわして再度出兵するのだが、そのさい隆信に、自分に参謁してこちらに付くよう使者を出した。もちろんそんな事が通るはずもない、隆信は「弓取りは不義の人に組せず。」と言い、こっちに来て一戦するか?と言ったのである。それに怒った大友は6万の軍勢をそっくり佐賀に向け、ついに城を囲んでしまったのである。
城を囲まれてはいたしかたなし、ここは和平を結ぶか城を落ちるしかないと言う老臣の意見が多数になった。そこで進み出た信生が「先程、大友に強い返答をしておいて、囲まれたからと言って降参するのは惰弱の至り、恥ずかしいことです。また、ここから落ちたとしても、前のようにここに帰ってこれるわけではありません。死すべき時に死んでこそ、後後のものには聞こえがいいでしょう。ならば、私はここで討死にしてあの世に行きます。」といって畳を一刀両断したのである。それを聞いた 隆信も畳を切って、「そなたの言うことにわしも賛成じゃ」といったため、城中一同に討死にと思い定め、なかなかさっぱりとした様子であった。と「肥陽軍記」にある。

「葉隠」にある「武士道というは、死ぬことと見つけたり。(中略)別に何もない、ただ胸座って進むなり。」という、超有名なフレ−ズを思い起こす。
この話は、佐賀武士らしい話だと思いませぬか?

その後は、信生がたった七百騎で夜討ちをかけ、大友親貞を討ち取り、大友軍を崩壊させたのである。
むははははは!!!す、凄い話じゃ!!!
だから、彼が好きなんじゃ。

では、おいとましようかの。

PS:奇妙丸殿が蒲生氏郷の本を御探しとか、それなら、「蒲生氏郷 池内昭一 著」と「蒲生氏郷のすべて 高橋富雄 編」がおすすめじゃ!共に新人物往来社 刊じゃ!後、書店にあるかどうかわからんが、「会津入府四〇〇年記念出版 蒲生氏郷 歴史春秋社刊」もなかなかいいぞよ。

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