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其の14

其の16




歴史評定 のお話 其の15


乙三さん
E-mail:jo6-life@nsknet.or.jp

祝!アクセス10,000件突破。

 Hiro.Kさんに提案ですが、突破を記念して(仮称)「歴史書院」とでも題するコーナーを新設しては如何でしょう?
「評定」でも「SLG」でも書籍や小説に関する話題が少なくない訳ですから、それをよろこぶヴィジターも多いのではありませんか。

(ご提案ありがとうございます。これ以上構成が複雑になることだけが懸念事項です。ぜひ検討させて頂きます。管理人)

真田幸隆さん
E-mail:teraska@mx6.meshnet.or.jp

ここ最近お話されている方がいらっしゃないようなので、私めが・・・・
幸隆さんについて少しお話します。幸隆さんは1513年、信濃国小県郡でお生まれになり、幸せに(?)暮らしておられました。1541年までは。
その年の5月!武田信虎が村上義清、諏訪頼重らとともに攻め入ってきたのです!この時幸隆さん29歳、信綱君は、生まれてました。
どんな戦だったんでしょう、文献を見てもくわしく書いてあるのはないみたいです。でも、かなり激しかったんでしょう。海野の嫡男で幸隆さんの兄、幸義さん(叔父であるとか父であるとか諸説ありますけど、僕は兄だと思います。)が、村上義清によって討ち取られてしまったんです。
ガガーン!あ、兄上!おのれ義清、いつか必ずおぬしを・・・
ということで、幸隆さん、息子の信綱君を抱きかかえながら(?)御父海野棟綱さんと上野の箕輪城まで落ち延びました。箕輪城には名将長野信濃守業正さんがいました。「其の頃上州箕輪の城主長野信濃守は隠れなき弓取也」って書いてます。幸隆さんと気が合ったんでしょうかしばらく置いてくれることになりました。とりあえず安心。
しかし!この時の幸隆さんの気持ちやいかに!無念なり。みじめなり。どーだったんでしょう?
でも大丈夫。その後信玄公との出会いあり、勘介さんとの出会いは・・・これはちょっと史実かどうか怪しいみたいです。(勘介さんが信玄公に士官をすすめたって話のこと。実在しないってわけじゃないですよ)
そして、義清への復讐。幸隆さんの前途は明るいのです。ファイト!!

***幸隆さんびいきで書いたので
           気にさわった記述があったらごめんなさい***

マモルさん

マモルでござる。
こちらに来るのは久方ぶりじゃ!!
さて、面白いことを見つけました。鉄砲伝来の異説でござる。
まずは、日本史に載っている鉄砲伝来といえば?
1543年(天文12年8月25日)、種子島の西村にポルトガル船(一説に中国船という説がある。)が漂着した。そこから降りたポルトガル人に会った種子島時尭が破格の値段で鉄砲を購入した。その翌年、再びポルトガル船が一人の鉄砲鍛冶と共に来航し、時尭が金兵衛清定にその技術を習わせた。
ここで初めて日本人が鉄砲と接した。とあるが、果たして本当であろうか?
実はここに面白いことが書いてある。「北条五代記」の中の「山伏の玉滝坊」が若き「三浦浄心」に語ったことがそうである。内容は享録年間(1528〜32)に「玉滝坊」が堺で轟音を発する物を見た。人に尋ねると鉄砲といい、永正七年(1510)に唐国から渡来したものだという。そこで一挺購って関東に持ち帰り、北条氏綱公に献上したとある。これなら、幼児だった氏康が鉄砲に恐怖して回りの失笑を買ったため自殺未遂をした話もうなずける。それも明ル−トの鉄砲でだ!
ヨ−ロッパと地続きの明には早くから鉄砲が伝わってもおかしくはない。
他の本に、明の海賊 王直が早くからポルトガル人に接していて、天文年間にポルトガル人と共に薩摩に来ている。この王直という男は倭寇の内応者で、平戸と明の間を行き来していたようである。つまり、種子島に鉄砲がくる以前に倭寇に鉄砲を渡していた可能性があると言うのだ!
その証拠に、天文年間、松下五郎三郎という男が、海賊から明への貢ぎ物を守るため鉄砲をつんでいた。当時の鉄砲の値段は高価だったと言うのに貢ぎ物より安かったのだろうか?王直を介在した明ル−トというのは考えられないか?

そしてなにより!アメリカのU.F.O実験は・・・あれ?脱線してる。
え−と・・・

PS:北条五代記は信憑性に欠けるかもしれませんし、王直の事も確たる証拠があってのことではありません。受験生の皆さんは「1543年鉄砲伝来」をしっかり覚えましょうね。でも、入試ではほぼ確実にでません。

仁礼小一郎さん

はじめまして、仁礼小一郎といいます。
これからどんどんお邪魔します。どうぞよろしく。

このHPをみて思ったんですが、みなさん個人個人が自分の考えや疑問をいいあえてとても素晴らしいと思います。
歴史について語れる友人がいなかったのでとてもうれしいです。

さっそくですが、僕は豊臣秀長のことについておしえてほしいです。
ぼくは「太閤立志伝」シリーズや「太閤記」などの秀吉関係の本で知り好きになったのですが、秀長の本は1冊しか探せず、あまり詳しく調べることができませんでした。秀長の本知ってる方、是非教えて下さい。
(ちなみに僕の読んだ本は、堺屋太一「豊臣秀長」です。)

最近読んだ本では、井沢元彦「洛陽城の栄光」という本です。
「本能寺の変がなかったら」というありきたりなパターンですが、仁礼三九郎という未来からきた者が主人公です。この本での信長は、大坂の地に「洛陽城」を建てたり、東南アジアの植民地に「信長」という自分と同じ名前の首都をつくったりととても個性的でたのしいです。そしてこの本では、光秀の黒幕には、正親町天皇や今井宗久などなどいろいろな方が いらっしゃいます。とてもおもしろく読める本です。是非一読を。
すでに読み終えた方、是非感想を。ではこの辺でさようなら。

小西隆佐さん
E-mail:tama@samurai.forum.or.jp
HP:九十九城

 初めてかく、小西隆佐と申します。
さて、マモル殿が紹介した、鉄砲伝来年の異説ですが、結構信憑性があります。
私の手元の資料(が今は行方不明)では、「室町時代(応仁の乱前後のことだろう)には明から来た人が鉄砲を披露した(記憶が宛にならないがこのようなことが書いて会ったのは確か)」との記述があり、石垣が出来たのは鉄砲のせいではない(玉が跳ね返ったりして危ない)ともある。
鎌倉時代にも元寇時に「てつはう(鉄砲:鉄砲といってもただの爆弾みたいな物)」の文字があり、日本に伝わった可能性もある。
ただし実用性がなかったのでしょう。金もかかるし...

教科書の歴史もいつか変わるかもしれません。

乙三さん
E-mail:jo6-life@nsknet.or.jp

や、どーも乙三です。鉄砲と石垣について少々...

 "焙ろく"は将星録でも武将の特技として登場しますが、本来は村上水軍特有の火器です。
その形はハンマー投げ(陸上競技)のハンマーに似ていて、中空になった鋳物の球体の内部に火薬を詰め、外側の1方に穴が開けてあって導火線を押し込んであり、もう1方に環がついていてロープを結わえてあります。
それをハンマー投げよろしくグルグル振り回して投げ、飛んでいった先でドカンと爆発する代物です。
 射程は弓よりもさらに劣るでしょうが、それより時代が下ってから登場する大筒よりも殺傷力が高かったと推測されます。
というのは大筒の威力が運動エネルギー(砲弾の質量x砲弾の速度)だけであるのに較べ、"焙ろく"は爆発力(爆風で吹き飛ばす効果+炎で火災を生じさせる効果)に加えて破片効果(鋳物の破片が四散して殺傷する効果)もあるからです。
第1次木津川口海戦では織田水軍は惨憺たる敗北を喫していますが、船いくさといっても琵琶湖での小規模な戦い火器といっても鉄砲以上のものを知らない未熟な水軍が、練達の村上水軍に前述の秘密兵器をしこたま見舞われた訳ですから、全滅に近い損害も仕方のないところだったでしょう。

 さて、これから先は根拠に乏しい私の想像に過ぎませんが、この"焙ろく"は元寇の頃の"鉄炮(てつはう)"と同じものであり、そして"鉄炮"のルーツは中央アジアの古代都市国家で発明され"柘榴(ざくろ)"と呼ばれていたらしい陶製の手投げ弾だったかも知れません。
元軍の中央アジア侵攻に伴って元にもたらされた"柘榴"は、既に中央アジアで陶器から鋳物に材質が改良されていたか、あるいは元によって改良され、これを中国人は「鉄でできた火を生じる包み」すなわち"鉄炮"と名付けた。
これが元寇=元軍の北九州上陸作戦に参加した朝鮮半島か中国本土の水軍に代々伝わっていて、室町時代の倭寇の際に彼らと敵対,交流もしくは協力関係にあった村上水軍に伝えられたのではないでしょうか。

 ひもを付けてブン回し遠くに飛ばす工夫は、既に中央アジアでなされていた可能性はあります。
というのは、旧約聖書の記述の中に非力なダビデが大柄なゴリアテを石を投げつけて倒す話があり、この時ダビデは"石投げ器"という道具を使ったとされています。
この"石投げ器"とは、長い革ひもの真ん中に石を挟み込む当て皮が付いており、ここに石を挟んで革ひもの両端を握る、ブン回して勢いがついたら革ひもの片方を離す、石だけ遠くに飛んでゆくという道具です。
中東=西アジアと中央アジアは、シルクロードやイスラム教を通じて何くれとなく交流があった地域同士ですから、この道具が伝わって陶製の手投げ弾と合体することは充分あり得ると考えられます。
 ハンマー投げの要領でブン回す訳ですから元々狭くて揺れる小舟の上で行いやすい動きではなく、中朝日のどこかの水軍がブン回す工夫を付け加えたとは考えにくい。
となれば水軍が兵器として着目した時点で「取り扱いは面倒臭いが、威力があるから我慢するべぇ」と受け入れられた、つまり水軍の兵器になる以前にブン回されていたと推理できます。

 さて全軍が騎兵から成る元軍が唯一苦手とした戦闘は攻城戦だったと思われ、それを解消したのが"鉄炮"だったのではないでしょうか。
その用法は弓の射程外で導火線に点火し、騎上ブン回しながら矢を避けるために全速で城壁に接近、城壁間際で急旋回、その刹那に城壁の中に放り込むという形をとったと考えられます。
攻撃する兵士の危険も大きいが、狙いは正確、威力も絶大という訳でルフトバッフェ(ナチ独空軍)のスツーカ(急降下爆撃機)も斯く也といった趣です。
その攻撃法が知れわたってからは、蒙古兵が"鉄炮"をブン回しながら突進してくると「わっ、来た!」とばかりに城兵が逃げ散りあるいは物陰に身を伏せる、一時的に城壁からの射撃(もちろん弓矢)が希薄になる、その隙をついて城門を破壊する1隊が肉迫..という戦闘経過だったことでしょう。

 そんなスゲー兵器が何で朝鮮出兵当時の明国や李氏朝鮮の正規軍に伝わっていなかったのか?少なくとも使わなかったのか?、何で日本の村上水軍が使っていたのか?という疑問もあるかと思います。
石垣云々はどーした?という声も(あるいは、オッサンの話は長ーいからさぁ、ここいら辺で止めとけばー!という声も)聞こえるようですので、続きは次回に致します。

かしこ

乙三さん
E-mail:jo6-life@nsknet.or.jp

PS.私が(何時だったか?)NHKの番組で"焙烙(ほうろく、字が見つかりました)"を見たときは大きめのものだったためかハンマー投げの要領で投げていましたが、もっと小型でソフトボール位までの大きさならば鎖鎌の分銅(カマでなく錘の方)をブン回す要領で投げることは充分可能でしょう。
であれば騎上でも船上でも問題ない訳ですし、水軍はロープを繋いだ鉄鈎を投げつけて敵船を拘束する技に慣れていたと言われており、水軍にはむしろ扱いやすい兵器だったのでは?と考えを改めました。(続)

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