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其の18




歴史評定 のお話 其の17


乙三さん
E-mail:jo6-life@nsknet.or.jp

 や、どーも、乙三です。本日は鉄砲の続きと石垣についてホラ話を少々。焙烙から入っていった水軍の話も、尾ひれが付いて脚まで生えてきそうな雲行きですが、もう一寸っと学んでからでないと「ホラと物知らずは別物でっせ!」と叱られそうなので後回し...と云うことで。

 まず鉄砲の続き。俗に「鉛弾をブチ込む」と言いますが、鉛を弾丸の材料に選んだことが鉄砲が火器として成功した理由の1つと考えられます。
 もちろん鉛は融点が低いので弾丸の形に加工しやすいという特徴があります。それだけでなく、それ自体が柔らかい点と質量が大きい(=単位容積当たりの重量が大きい)という点が大事です。なぜなら、いわゆる火器の威力とは射程,命中精度,貫通力などに集約されますが、それらに最も影響するのは初速(銃口を出た直後の銃弾の速度、秒速ん百メートルと表す)であり、その初速を高めることに鉛の弾丸が寄与したと考えられるからです。
 当時の工作技術では、銃身の穴の断面を正確な直径の真円で量産することは困難だったでしょうし、同じことが弾丸にも言えます。しかし初速を高めるには、弾丸と銃身の内側の間に隙間があって火薬ガスが逃げてゆくのでは具合わるく、弾丸と銃身の間にあまり隙間がない状態にしなければなりません。そして、如何にして弾丸と銃身を密着させるかという問題を、弾丸を柔らかい鉛で作ることで解決した。つまり銃身の穴や弾丸の断面が少々歪つであっても、弾丸が鉛ならばカルカ(弾丸と弾丸薬を突き固める細い棒)を使って薬室部分まで押し込むことは容易です。また柔らかい鉛だからこそ、弾丸薬の爆発によって生じた火薬ガスに押されて変形し、銃身の穴に密着して火薬ガスの圧力を逃がさないようにしながら銃口まで押し出されてゆくことができた訳です。

 また質量が大きい鉛弾だからこそ、運動エネルギーを保ったまま遠距離まで届いたと考えられます。弾丸に鉛が用いられるのは現代でも同じであり、映画のタイトルになった"フルメタルジャケット"の和訳は"全体を鉄で包んだ(弾丸)"になりますが、鉄に包まれた中身は件の鉛です。鉄砲の場合は無垢の鉛弾なので、目標に当たった際に弾丸が潰れてしまいやすい。射距離を伸ばすにつれ、木材など柔らかい目標に較べて甲冑など硬い目標に対する貫通力の低下が著しかったにせよ、殺傷力すなわち当たった時のダメージは大きかったでしょう。
 なお天正十六年(1588年、秀吉の北条攻めの前辺り)には、既に鉄の弾丸も使用されていたようです。これには2つの面があり、1つは鉄砲に耐えるために改良された甲冑に対して貫通力を向上させる工夫です。いま1つは鉄砲鍛冶の熟練度が全体的に上がってきたため、技術水準自体は大差なかったけれども、高い精度で仕上げられた鉄砲が大量に安定して供給されるようになったことを示していると思われます。

 鉄砲の歴史をふりかえって感じたのは、戦国期の昔から現代と共通する国民性を日本人は持っていたんだなァ!とゆーこと。
 1540年頃、国産化され始めた頃は有力大名でも数挺しか保有していなかった鉄砲が、それから50年位で装備率が全軍の10%に達し、ピークを迎えた70年後には装備率が20%を超えている。その間にドクトリン(戦闘に関する基本的な考え方)も大きく変化し、初めは狙撃や心理的効果しか果たしていなかった鉄砲が、ほんの半世紀を経ただけで軍の主戦力の地位を占め、他の兵種は鉄砲に戦力を発揮させるための補助的な役割に堕してしまった。そして大坂の陣では「これからは大砲の時代だ!」と諸大名がこぞって認識していたらしい。
 この辺りの変わり身の早さとゆーか、国を挙げての同じ対応とゆーか、流行への弱さとゆーか、まーその、変わっていませんねェ、ニッポン人は。

 さて石垣の話。近世城郭が「石垣と白壁の城」という世間の通念は、余り正確ではないように思われます。江戸城や名古屋城でさえ外郭線の大部分は土塁であり、石垣は枡形門の部分に限られています。江戸城ですら内郭に含まれる西の丸,北の丸,吹き上げ郭に、基壇と頂部のみ石垣を築いて中間を土塁で継いだ"鉢巻き土居"を用いており、水戸城,高田城,久保田城など石垣をほとんど使っていない例も少なくありません。本丸だけ、あるいは本丸に付随する城の中心部分だけ石垣を築く形がむしろ一般的で、現代まで残されている遺構がその部分だけという場合が多かったから、近世城郭=石垣という思い込みが生じたに違いありません。
 漆喰塗りの白壁にしても同様で、例えば伊予松山城や熊本城など、櫓の1層部分や塀に"下見板"と漆喰を併用した城が少なくなく、北国では金沢城や新発田城のようにタイル(たぶん釉薬をかけた瓦と同じ製法)を貼った"海鼠壁"の例も見られます。これらが九州,四国の雨の多い地域や東北,北陸の降雪地に比較的多く分布している点から、軒で覆えずに雨や雪で直にたたかれる部分の対策という意味があったのだろうと推測されます。

 ただし大阪城の場合は特別で、有力外様大名に経済的負担を強い、かつ幕府の権力を誇示するために、軍事的な必要性を超えてデラックスなオール石垣造りの築城を命じたと考えられます。というのは土塁であっても充分な高さと堀の幅があり、そして塁線上に充分な密度で兵力を配置できれば、かなり強固な防御力を発揮することが、大坂冬の陣で実証されているからです。むしろ防御側兵力の密度が充分か否かの方が、土塁か石垣かの違いよりも勝敗に影響したのではないでしょうか。
 とはいえ石垣の防御上の価値が小さかったという意味ではなく、石垣の角度は緩やかなもので60度以上,急なもので80度位あったのに比べ、土塁では30−40度しかありません。つまり石垣ならば、落ちればケガをまぬがれない高さ以上であれば切り立った岩壁に迫る堅固さがあります。
 較べて土塁は堀を掘ったり不整地を削ったりした残土を利用できるため基本的にローコストですが、石垣は採石地で石を切り出すことから始まって加工,運搬,積み上げまで余分な労力と特殊な技術が必要なだけに、少なくとも土塁の十倍位のコストを要したでしょう。したがって総延長が数キロないし十数キロにおよぶ"総構え"を石垣で築くことは現実的なプランと見なされなかった訳です。

 「鉄砲の普及が石垣の普及を促した」とする説は、遠からずと云えども当たっていないなァと私も思います。軍事的な理由として考えられることは、いわゆる櫓を塁線いっぱいに建てるための基壇として重宝されたのではないか?という点です。
 櫓には主に単層の多聞櫓や2,3層の隅櫓がありますが、多聞櫓の機能は[1]火力(=鉄砲)を火力から防護し、かつ[2]雨天でも支障なく火力が発揮できるすること、防護することによって[3]水平方向に火力密度を高める(射手の間隔を狭める)ことの3つと考えられます。隅櫓の機能は、これら3つに加えて[4]火力配置を垂直方向にも重層化してコーナー部分の火力密度をさらに高めること、[5]哨戒や指揮のために視界を得ることの2つと考えられます。つまり塁線のコーナー部分は2方向を監視し射撃できる重要な位置であり、また2方向から射撃される危険な位置でもあったため、この部分の火力密度を高めるとともに充分に防護する必要性があったのではないかと考えられます。
 しかし土塁では櫓を塁線ギリギリに建てることは困難だったのに較べ、石垣では容易だったという訳です。

 非軍事的な理由は、諸大名の領国支配と開発が深化して大名の経済基盤が確立し充実したため、それが築城に於いてカネがかかる石垣の大規模な採用を財政上可能にしたこと。私はこれがメインだと思っております。
 また秀吉が催した"天下普請"や朝鮮出兵に於ける"倭城"の工事によって、それまで穴太(あのう)衆が半ば独占していた石積みの技術が全国の石工に伝播したため、技術的にも可能になったと考えられます。

 枡形門や櫓台を除き、本丸ないし本丸周辺を重点的に石垣で固めているのは、思うに本丸を中世城郭に於ける"詰の城"として位置づけている考え方があったからかも知れません。
 また枡形門に石垣を用いる例が多いのは、もちろん門が防御の要であるためですが、それだけでなく石垣が大名のステータス・シンボルないし"力"の誇示でもあったからです。それを裏付けるように有名な例では大阪城桜門の"蛸石"や弘前城追手筋の巨石があり、その他にも私の地元"富山城"の天守下に大きな石がはめ込まれているなど、確かめた訳ではありませんが全国各地に似たような例があるのではないでしょうか。
 このステータス・シンボルすなわち建造物で"見栄を張る"という考え方は、遠く鎌倉期に既に一般的だったと思われます。有名な例として"一遍上人絵伝"から、武家の館は正面は板塀に矢倉門で他3方は土塁であることが窺われますし、実際、現在に残る鎌倉期の館跡の縄張りからも同じことが見て取れます。これは個人的には25年来の宿題だったのですが、板塀よりも土塁の方が堅固なはずなのに、何で重要なはずの正面だけが守りの手薄な板塀なのだろう?という疑問がありました。これを説明するには、城門の巨石に絡めて「建造物で見栄を張っていた」と考えるのが、今のところ妥当かな!?と思っています。
...またも話が長くなりました、お後がよろしいようで。

かしこ

PS.     皆様のご教授・ご反論をお待ちします。      乙三、拝
乙三さん
E-mail:jo6-life@nsknet.or.jp

乙三です、先程の補足を少々。
 石垣が普及した理由として、[1]財政上、可能になった, [2]技術が全国に伝播した,[3]櫓台や枡形門の強化,[4]詰の城としての位置づけ,[5]ステータス・シンボルという5つの理由をあげました。このうち[4]については説明がなさ過ぎますので、それについて...。

 近世城郭が成立した関ヶ原戦から大坂の陣までの頃、藩主(大名個人)は城内で最も堅固な本丸に居住することが未だ一般的だったようです。これは戦時に家臣が内通した際や平時の謀反=武力反乱の際のテロに備えた用心と考えられます。徳川につくか豊臣につくかで家中でも意見が分かれたようなこともあったと想像される政情不安のこの時期、家臣が藩主を暗殺して反対陣営の旗を掲げるかも知れないという心配は、けっして非現実的なものではなかったのではないか?。
 防備は薄くとも交通至便な場所に藩主の居館が移っていったのは、幕藩体制が安定し、下克上の風が廃れ、儒教的な忠義が武士階級に浸透し、謀反の心配がなくなる頃まで待たねばなりません。それまでの間、藩主は自分の家臣たちに対しても油断できない日常を送ったのでしょう。
 この時期、城の本丸は面積がだんだん広がってくる傾向があり、それは藩主の殿舎を置くために広くとる必要があったことと、最終防衛線としての本丸は小さ過ぎると防御上意味がないという2つの理由からではないでしょうか。
 そして藩主の居城の役割が、兵農分離すなわち家臣の城下集住と並行して、最後の防衛拠点から政治・経済の中枢に移っていったため、人や物の行き来に不便な山城が廃れ、交通至便な平城が好んで築かれるようになったと考えられます。

 さて、そうなってくると藩主としては「城は平城でも構わんが、本丸だけは特に堅固に造りたいもんだ」と考えたとしても不思議はありません。それに、できるだけ平時の警備も厳重にしたい「寝首かかれちゃ、かなわんからな」。という訳で、石垣が本丸の"定番"と見なされる位に隆盛したという結果になったと考えられます。

かしこ

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