藤林長門守さん
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HP:有限会社"云いたい放題"
《 鉄砲続編 》
前回は、鉄弾(くろがねだま)=鉄製の弾丸は甲冑の耐弾性向上への対策と書きました。しかし"歴史群像グラフィック戦史シリーズ・戦略戦術事典2 日本戦国編"の88ページ"弾丸が語る戦国火縄銃の実際"には、そうではなくて練習用の弾丸だった可能性を示唆する記述があります。鉄弾は射撃による変形が少ないため何度も再使用できたであろうことを重視した見方です。また北条氏の山中城から出土した弾丸計188個のうち鉄弾は16発、その比率は8.5%になりますので、再使用を前提にした練習弾なら元々数が少なかったと見ることもできます。とはいえ鉄ですから錆びて崩れて出土しなかっただけかも知れません。なお出土した弾丸のうち147個78.2%を占めるのは銅鉛合金製の弾丸であり、残る25個13.3%が鉛弾だったそうです。
同じく北条氏の権現山城では、古文書によると準備された弾丸計5,587発のうち鉄弾は2,250発、その比率は40.3%に上ります。また鉄弾の数量は"小鉄炮50"に併記されており、鉄弾は小鉄砲用だったことをうかがわせます。
因みに通常の鉄砲は"鉄炮15丁","玉3200"と別記されています。しかし不明なのは"合薬××放"とあるものの正体であり、小鉄炮に併記して"1200放",鉄炮に併記して"1500放"とあります。これらの他に"合薬9斤"という表記もあってややこしい。読みが「あいぐすり」ならば重量を射撃回数に換算した表現と取ることができますが、もし「ごうぐすり」だったなら既製品の早盒(はやごう)と解釈でき、その場合、それぞれ弾丸の数に加算しなければなりません。
そこで早盒だった場合の合計を( )で括って1挺当たりの弾丸の数を見ると、鉄砲は213.3(313.3)発,小鉄砲は45(69)発になりますので、やはり再使用を前提にした練習弾だった可能性が高くなります。ただし鉄弾の数は"くろ金玉1350"と"同玉900"と分けて表記してあり、単に後から付け足したのか?小鉄砲用と鉄砲用を分けたのか?それとも鉄弾は1,350個だけで"同玉"とは小鉄砲用の実弾=鉛弾(定説では...)だったのか?微妙な部分です。そうなると"玉3200"も、鉄砲用の実弾だけだったとは必ずしも断言できなくなります。いや全くややこしい。
では北条氏で鉄砲,小鉄砲と呼ばれていたのはどんな銃だったのでしょうか?。鉄砲は6匁筒ないし中筒(なかづつ)と呼ばれた銃で、口径16mmで弾丸の重さは6匁=約22.5g。小鉄砲は細筒と呼ばれた銃で、口径13mmで弾丸の重さは3匁5分=約13gと思われます。当時、最も多く使用された銃が6匁筒だったそうですが、北条氏は細筒の比率が高いようです。これは北条氏が鉄砲"後進国"だったので商人に足元を見られて不良在庫だった細筒をつかまされたか?、それとも信長や秀吉の内密な指示によって商人が言葉巧みに細筒を買うように仕向けたか?、あるいは予算が乏しかったので"先進国"が6匁筒に更新したため余剰になって売りに出したか下取りさせた細筒をやむなく買い入れたか?、開戦時期を見誤り取りあえず銃手を養成するつもりで細筒を重点的に買い入れたか?どうだったのでしょうか。昔から変わらず"技術情報と戦略情報は重要不可欠"という実例であり、現代も兵器の輸出入に於いて似たようなことが行われています。
鉄砲は明や朝鮮では"鳥銃"と呼ばれていましたが、日本の鉄砲のルーツは東南アジアで製造された鳥打ち銃にあります。鳥打ち銃だからこそ口径が比較的小さく、したがって反動も比較的小さく、角度を付けて撃ち上げる射撃姿勢を前提に設計されていたため、銃床が頬付け型だった訳です。
この頃のヨーロッパの軍用マスケット銃は口径0.75インチ=19mmで弾丸の重さは推定で38g弱に上り、その威力は6匁筒より1回り大きい。銃床は肩付け型で、射撃の際は銃身をカメラの1脚ような支持脚で支えたそうです。つまりヨーロッパ人は準備が整い次第アジアを植民地にするつもりでしたから、最新最強の火器をアジア人に譲ったり製造法を教えたりしなかったと云うことです。
ただ面白いのは、日本の鉄砲鍛冶が"頬付け型"というデザインの大枠を最後まで変えないで性能面の改良を図っていったことです。遂には200匁玉(弾丸重量750g)を発射する口径50mm弱の大筒まで製造したけれども、これの銃床もデザインとしては銃床が頬付け型でした。実際に頬付けの姿勢で射撃できたのは100匁筒辺りまでだったようですが、当然、通常の撃ち方では反動を吸収できないため、左足を軸足にして身体を右へ半回転させる特殊な撃ち方が考案されました。200匁筒となればそれさえも無理なため何かに固定して撃つか、さもなければ立て膝で腰だめの姿勢で撃って反動を丸めた背中で後へ転がって吸収する撃ち方が工夫されたそうです。「日本人は"慣れと工夫と要領"に問題解決の答えを求める」というのは私の持論ですが、バズーカなど対戦車ロケット・ランチャーや無反動砲が出現するまで口径50mmに及ぶ火砲を人間が抱えて撃ったことはなく、その唯一の例外が戦国日本の鉄砲名人たちであり、他民族なら挑戦しようとさえ思わないことを彼らは"慣れと工夫"で克服した訳です。
このような極端な例を上げなくても、平均的な銃手でさえ連射によって銃身の内側に煤が溜まり弾丸が入りづらくなってきたら段々と小さめの弾丸に替えてゆくなどの細かい工夫や、後輩を教える際にも"引き金は、月夜に草の先から露が滴る如く、やんわりと引け"と詩的な言葉で本質を伝えようとすることなど、当然のように実行しておりました。この辺りの感覚は実に日本的であり、現代の私たちと全く変わりません。
鉄砲を顧みて残念に感じるのは、日本人が最後まで肩付け型の銃床を採用しなかったことです。30匁筒以上の大筒では逆に銃手の肩を痛めますが、10匁筒(マスケット銃と同じ口径)位までなら肩付け型の銃床の方が確実に命中精度が高くなったはずあり、なぜなら頬付け型よりも銃を安定させやすいためです。しかも銃床という1つの部品の形を変えるだけですから、製造工程さえ変える必要がないし旧型を新型に改造するのも簡単です。また精度上げるためには銃身を長くするだけでなく、支持脚に載せれば尚のこと効果的です。銃身の重さを支持脚が受け持つため、銃手は照準し反動を受け止めるだけで良いからです。もっとも銃が重くなれば銃手の機動性を損なうデメリットもあり、銃身の長さや支持脚の有無を決めるには、戦術や平均的な足軽の体力をも考慮する必要があります。それらの意味でマスケット銃は合理性の見本でしたが、なぜ肩付け型の銃床という画期的ではあっても単純なアイディアを思い付けなかったのでしょうか?。
そこで私たち日本人が自覚しなければならないのは、自分たちが発明・発見の素質に劣ることではなくて、自ら自分や仲間のオリジナリティーを殺してしまいがちな傾向があることです。生半可に器用で智恵が回るばっかりに、不便な道具でも不完全な組織でも"慣れ"て"工夫"がつけば何とか使いこなしてしまえる。一旦、使いこなす方法が定まったら、人間関係を大事にしすぎる余り改善提案すら自制してしまう。それが裏目に出て、不便と分かっている道具でも不完全と分かっている組織でも"慣れと工夫と要領"で克服することが奨励され、戦争に負けるか社会が破綻するまで不便な道具や不完全な組織が改められません。祖国に国際的な発明・発見をもたらした日本人のほとんどは、故国に居づらくて海外で研究を続けたり母国に居ても周囲から白い眼で見られることに耐えなければなりませんでした。これでは誰かの頭に優れたアイディアが閃いても、試作品をつくるどころか実験にすら取りかかれないでしょう。日本で頬付け式の銃が肩付け式に進化しなかった原因はそこにあり、ゴム動力に着目しライト兄弟よりも僅かに先行していた二宮忠八が人類初の動力飛行機を断念しなければならなかった原因もそこにあります。日本人は決してオリジナリティーに劣る訳でなく、それを自ら潰しているだけなのです。