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其の29

其の31




歴史評定 のお話 其の30


原 美濃守さん

武田家滅亡と当時の真田家の立場について

武田勝頼は小山田信茂の裏切りにより天目山で憤死し、ここに武田家は滅亡したわけですが、長篠の合戦敗北後の武田家内における真田はどのような立場にあったのでしょうか?また、どうして勝頼は小山田なんかを最後に頼ったのでしょうかね。みなさんの意見を聞きたいです。

内藤修理さん

小山田より梅雪が憎い

こんにちは。
原美濃といえば、原トラタネのことですね。なかなかの武田フリークでいらっしゃいますね。まあ、ぼくは美濃守は馬場民部のほうが好きだけど。
小山田家はたしか山梨の地方ではかなり有名な豪族でったらしいので、勝頼様が頼るのもわかる気がします。位は真田家よりも数段上ですし。
真田家が著しく台頭してきたのも、武田滅亡後ですよね。真田家の当主、幸隆も死に、長男信綱も長篠の戦で死んでしまい、次男の若い昌幸でしょう。小山田の当主信茂は信玄来の古参の武将だから、頼り甲斐のあるなしも、はっきりしていたと思います。しかし、まさか信茂が通じていたとは・・・
新田次郎の武田勝頼を読めばその辺の心理もわかるのでは。
また歴史読本(例の赤い本ね)の「武田信玄」か「武田24将」に小山田信茂のコラムがあり、裏切りについて詳しく書いてありましたよ。

武田太郎義信さん
E-mail:
r-tanaka@ops.dti.ne.jp

ああ天目山

こんにちは。はじめまして。
武田家滅亡のおり、勝頼が真田昌幸の岩櫃城ではなく、小山田信茂の岩殿山城に落ちていこうとした理由について申し上げたいと思います。
後世の歴史からその後の真田昌幸の活躍を考えると、名門武田の御曹司の愚行と考えられがちですが、その当時の小山田家と真田家の歴史的経緯を軸に検証してみます。

まず、小山田家ですが、出自は桓武平氏で鎌倉時代には現在の町田市北部の小山田に所領を持ち、鎌倉幕府の有力御家人として在地領主となっていました。
その後、畠山重忠事件に連座して所領を失い、室町後期には甲斐の国郡内地域(現在の大月市)周辺にいたとされています。
甲斐の国は鎌倉・室町・戦国と一時中断もありますが、武田氏が領主として守護・守護大名・戦国大名として統治しており、その国内は守護所のある国中地方、一族である穴山氏が治める河内地方、そして小山田氏が治める郡内地方に三分されていました。
穴山氏と同様に小山田氏の持つ性格は極めて在地領主としての性格が強かったと思われます。
これは、時に中世的権威を持つ武田氏と戦い、融和した歴史からもうかがえます。
例をあげれば、甲斐国内においての、穴山氏の金山の所有権、小山田氏の富士詣でにおける通行税の徴収権などです。

この在地領主性は甲斐国内においての独立性を示していて、武田氏はそうした有力国人を統制するのに血縁による融和を図りました。
小山田信茂の父、信有は武田信虎の娘を娶って信茂を産み、同じく穴山信君も信虎の娘を母に持ち、信玄の娘を娶りました。
後に武田を裏切る木曽義昌も信玄の娘を娶っています。
このようにいかに武田が在地領主の被官化に苦慮したかわかるかと思います。

一方の真田家の出自は寛政重修諸家譜によると海野氏、滋野氏の一族とされます。
上野の国で幸隆の時代に所領を失って武田を頼り、幸隆の才知により砥石城攻略などの戦功をたてました。
そして新参ではありますが武田の重臣となり、信玄の駿河攻めの際は留守居役の重責を果たしました。

信玄の死の二年後に真田幸隆は死に、長篠の戦で長兄の信綱、次兄の昌輝も戦死し、三男の昌幸が真田の家督を継ぎました。

勝頼が逃げる際に小山田を選ぶか、真田を選ぶかの構図は在地領主を選ぶか、信玄以来の子飼を選ぶかの選択でした。
10年前の長篠の戦におい山縣政景、馬場信房、内藤昌豊、原隼人佑などの信玄によって薫陶を受けた武将たちは戦死してしまいました。
しかし、一門衆はもとより、小山田のような在地領主の戦死はありませんでした。
そこで明らかに違うのは、信玄に見出された武田家あっての武将たちとは違い、本来独立した存在である在地領主には武田の戦いで戦死するまでの理由はなかったのです。

結局は、織田の武田攻めにより崩壊する武田家と運命をともにする理由は小山田はもちろん、穴山や木曽にもなかったということです。

勝頼が逃げる際に小山田を選んだのも、彼は自分の従兄弟であり、しかも鎌倉時代から続く名門武田の聖地である甲斐の国を失うことは忍びがたいので上野に落ちるより同じ国の郡内に行こうとした、という自然の流れです。
また小山田にとっては勝頼の首を信長に差し出して自分の家を保とうと考えるのは生きるか死ぬかの戦国には当然のことであると考えられます。
(江戸時代の忠君思想とは全く異なります)
そして真田昌幸がその後上杉・北条・徳川相手に活躍することは勝頼には知る由もないのです。

長篠の戦の後の真田昌幸についてですが、新府城の縄張りをしたといわれています。
参考として、新田次郎氏の『武田信玄』を読まれると宜しいかと思います。

歴史を学ぶ上で常に心に留めておかなければならないことは、歴史というものは結果論で、IFを考えるのではなく、その当時の状況や人々の心情をベースに考えることが大事であり、それによって歴史から学ぶことはたくさんあり、また楽しいことだと思われます。
長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。

隠遁武将さん

キテ●ツ大●科のアイテムではないですよ

 猿関白の朝鮮征伐に出ていた亀甲車という乗り物について詳しく知りたいです。制作したのは加藤清正配下の飯田覚兵衛という人でした。この戦争以後このイカした?乗り物は使われたのかどうか、結果はどうだったのか、ご存知の方ご一報願います。

(あまり有益な情報では無いかも知れませんが...。うろ覚えなのですが、約一年程前に『NHK 堂々日本史』で取り上げられていたのを覚えています。確か《亀甲車》ではなく、《亀甲船》だったような...<違うかも。外から見ると、鉄か何かで装甲されており中が見えずさらに突起物?があり乗り移れないようになっていて、内部からは狭い隙間から外が良く見え、そこから攻撃した、ように覚えています。結構強力な装甲船だったが、何とかという将軍が敵に現れて、火攻めだったかなぁ...?で、結局は敗れた、というような内容だったと思います。管理人)

隠遁武将さん

re・114の管理人さんの情報

管理人さん情報有難うございます。しかし私の知りたい亀甲車ではなく亀甲船のことが・・・。亀甲船に関しては私も存じております(勿論キテ〇ツ大〇科のではないやつです)。亀甲船は中国の船ではなかったのでしょうか。
猿関白軍がまけたのはこの中国からきた援軍の亀甲船と、朝鮮の将軍、李舜臣(作家ではありません)の指揮によってなのです。ジャン負けに負けた朝鮮征伐ですけど、亀甲車や李舜臣など面白いテーマが結構あって興味が尽きないです。では失礼します。

(は、はずかしい...。すみませんでした...。何方かからの情報をお待ちしております。管理人)

マモルさん
E-mail:
nobunari@kk.iij4u.or.jp
HP:肥前の熊と佐嘉の赤熊(龍造寺項)

亀甲車。

マモルで御座る!

加藤家なら鍋島調べの過程で結構持ってます。
亀甲車という名称ではありませんが、多分第二次晋州城(陳州城)攻めで使われた加藤家の戦車の事でしょう。
史料を引用しましょう。
『清正記(三)』(続群書類従第三十三輯上)
「(文禄二年五月中旬)(要約:加藤主計頭、黒田甲斐守長政の軍勢が竹束を持って攻めるも効果なく、五十日も経ったので両軍勢揃って落とすことにした。)
数百疋之牛を殺し。毛を内になし。亀の甲を作らせ。其内に足軽を入。自由に振舞に依て。火矢もあたらず。石垣のすみの大石をはねはづし。七八間崩す。一番森本儀太夫乗込。鉄砲には向こうすねを討れ流落す。二番黒田甲斐守内後藤又兵衛。堀久七乗上る。三番主計内飯田覚兵衛乗込。三人寄合頭に行合ける。角(覚)兵衛。又兵衛抔が(などが)具足の上帯を取。御辺一番乗と可申哉と云い捨て。妙法之旗を指上。加藤主計内飯田覚兵衛一番乗と名乗。」
その後は後藤又兵衛が怒って儂が一番乗りじゃ!と文句をつけるけど、清正は飯田と石垣を破壊させた森本に戦功があった!とえこ贔屓した話。

『清正記』にも『清正高麗陣覚書』(続々群書類従第四)にも、亀甲車を使う前は竹束で(石垣を?)攻めたそうですから、亀甲車にも竹束を使っていたと思われます。
亀甲車はどういうものなのか?
マモル考では、牛の革を張り巡らせ(燃えやすい表は内部側)た天蓋(亀甲)で火矢に強くした。自由に動けるということはリヤカーのような二輪。石垣を外したのなら前面には竹の束で作った衝角が付いていた。

日本で使われなかった理由…鉄砲をサクサク通したからでしょうね。<森本が撃たれたのは良い例

追記:亀甲船は中国の船でしたっけ??朝鮮の役で李舜臣が使用した亀甲船は彼が特別にあつらえたものです。ちなみに作家は陳舜臣じゃ!(ツッコミ)

マモルさん
E-mail:
nobunari@kk.iij4u.or.jp
HP:肥前の熊と佐嘉の赤熊(龍造寺項)

亀甲車のこと。

マモルで御座る!

加藤家なら鍋島調べの過程のお陰で結構持ってます。
亀甲車という名称ではありませんが、そりゃぁ多分第二次晋州城(陳州城)攻めで使われた加藤家の戦車の事でしょう。
史料を引用しましょう。
『清正記(三)』(続群書類従第三十三輯上)
「(文禄二年五月中旬)(要約:加藤主計頭、黒田甲斐守長政の軍勢が竹束を持って攻めるも効果なく、五十日も経ったので両軍勢揃って落とすことにした。)
数百疋之牛を殺し。毛を内になし。亀の甲を作らせ。其内に足軽を入。自由に振舞に依て。火矢もあたらず。石垣のすみの大石をはねはづし。七八間崩す。一番森本儀太夫乗込。鉄砲には向こうすねを討れ流落す。二番黒田甲斐守内後藤又兵衛。堀久七乗上る。三番主計内飯田覚兵衛乗込。三人寄合頭に行合ける。角(覚)兵衛。又兵衛抔が(などが)具足の上帯を取。御辺一番乗と可申哉と云い捨て。妙法之旗を指上。加藤主計内飯田覚兵衛一番乗と名乗。」
その後は後藤又兵衛が怒って儂が一番乗りじゃ!と文句をつけるけど、清正は飯田と石垣を破壊させた森本と一番乗りの飯田に戦功があった!とえこ贔屓した話。
(堀久七という人物ですが、恐らく母里久七郎の事。彼は…母里太兵衛?)

『清正記』にも『清正高麗陣覚書』(続々群書類従第四)にも、亀甲車を使う前は竹束で(石垣を?)攻めたそうですから、亀甲車にも竹束を使っていたと思われます。
亀甲車はどういうものなのか?
マモル考では、牛の革を張り巡らせ(燃えやすい表は内部側)た天蓋(亀甲)で火矢に強くした。自由に動けるということはリヤカーのような二輪。石垣を外したのなら前面には竹の束で作った衝角が付いていた。

日本で使われなかった理由…鉄砲をサクサク通したからでしょうね。<森本が撃たれたのは良い例

追記:亀甲船は中国の船でしたっけ??朝鮮の役で李舜臣が使用した亀甲船は彼が特別にあつらえたものです。

とここまで投稿したのですが、訂正と加筆があるので管理人さんにお頼みしてUPを押さえてました。

『直茂公譜考補』(佐賀県近世史料題一編第一巻)によりますと、
「加藤清正工夫ニテ、亀ノ甲ト名付」
とありますので、亀甲という名がついていたようです。
新人物の『加藤清正のすべて』には飯田覚兵衛が考案したとなっていますが、ここでは清正の考案となってます。他には誰が考案とは書いてません。

そう言えば…こんなに活躍した飯田覚兵衛は次回の烈風伝では登場しないそうで…

山県三郎兵衛さん

神算鬼謀の真田昌幸

真田ファンの山県です。
さて、もちろん、ファンとしては、池波さんの真田太平記を読みました。
が、真田十勇士という架空の人物たちの活躍を書いたような読み物ってないでしょうか?
原著は、お芝居?講談?のために書かれたものだそうですね。
だから、猿飛佐助なんかは、名前を変えて、凄腕の忍者としてよく真田物の小説に登場するけど、私は佐助がどうした、六郎がどうした、といったような物語がよみたいのです。こんな本って、だれか知りません??

孟獲さん

真田十勇士関係の本

山県三郎兵衛さん、ありますよ、そういう本。
『風神の門』(上・下巻) 司馬遼太郎著 新潮文庫
です。
主人公は霧隠こと服部才蔵。
舞台は大阪冬の陣・夏の陣。
話の内容は、才蔵が旅の途中で何者かに人違いで襲われるところから始まり、その縁で佐助と出会い、幸村の命で才蔵と佐助の2人で家康を暗殺しに行くというもの。
他の十勇士も出てくることには出てくるが、影が薄い。(笑)
なんと言ってもこの本の魅力は・・・って、これ以上書くと読む楽しみが無くなるか。(^^;;
僕は凄くおもしろかったですよ。
是非読んで下さいな。

二人の信繁さん
E-mail:
meso0@geoph.s.u-tokyo.ac.jp

神算鬼謀の真田昌幸

真田ファンの山県さん。はじめまして。
私も一応真田ファンのです。

かすかな記憶しか残っていないのですが、前に真田関連の本を探していた時に、次のものを見つけました。

・新潮文庫 「真田十勇士」 2冊 柴田錬三郎
ちなみにこれはコミック化もされていて、集英社から 本宮ひろし氏 で出版されています。
但し、S.50頃だったと思いますので、私も見た事があまりなく、入手方法は不明です。(たまに古本屋でみますが)

・新潮文庫 「風神の門」 上下巻 司馬遼太郎
これは、霧隠才蔵が主人公の物語です。

ご期待のものと趣旨が違っていたらすいません。

駿河の町民さん
E-mail:
masahumi@aqua.ocn.ne.jp

服部半蔵について

服部半蔵正成の息子さんについて教えてください。
とくに三男の人。

ぽんぽんさん

吉良上野介はやっぱりワル?

どうもぽんぽんです初めてこちらのコーナーに書かせていただきます。
現在大河ドラマで「元禄りょう乱」をやっていますが、今までの吉良とは少々違うようです。
今回は浅野匠頭守を見て、なんかホモっぽい感じでせまってくるようです。(今日を見た限りですが)
数々の赤穂義士事件のお話では吉良はかなりのワルとして描かれていますが、実際は大変な名君だと聞いたことがあります。事件後お話にするために吉良のキャラをワルにしたと言いますが、それが本当ならかなりかわいそうなのかもしれません。
いわゆる「忠臣蔵」というお話は「四十七士」善、「吉良」悪という構図で成り立っていますが、実際の事件はもっと奥深くて、人間のドロドロした部分が表だった事件なのかも・・・・・・
これはあくまでも僕の意見ですが、本当は役目にストレスを感じていた浅野が、たまたま通りかかった吉良と肩がぶつかっただ、ぶつからないだの言い争いの揚げ句に刃傷に及んで。気がついたら偉いことになってしまったとハッとしたときにはすでに遅く、大名を潰しがってた幕府によって切腹を命じられてしまって、すべてが始まったのではと僕は考えています。
もちろんこれは学のない僕のくだらない推理です
それではまた。

SSSさん

浅井長政の憂鬱

浅井長政のファンで、信長の野望等、戦国SLGではよく浅井氏でプレイします(他には宇喜多秀家、鈴木(雑賀)氏が多い)。PS版しかもっていないので、将星禄はまだ記憶に新しいゲームです。そこで悩んだのですが、お市の方の浅井家輿入れや、織田、浅井の同盟がどうしても発生しません。まだかまだかと待つうち畿内一帯はすべて平らげ、お市の方さえいなければ織田家とて滅ぼすのに造作も無いのですが、これがなかなか嫁にこない。浅井長政でプレイする以上、これははずせない(名シーンですよね)と思うのですが、条件なり、フラグなりが何かあるのでしょうか。それともPS版ではこれはカットされたのかも(城数も大名も減ってるし)知れません。
清洲同盟はあったのですが(長政といえど、信長、家康と比べればマイナーということか?)。
誰か詳しい方教えて下さい。くどいようですがPS版です。ちなみにWIN版ではありましたか?

(gameに関する内容は、『新歴史game』の方へお願いします。管理人)

二本松 義継さん

剣豪について

私は、昨今の剣豪系の小説を結構読みます。例えば、池波正太郎の剣客商売や人斬り半次郎なんかは、結構面白いです。また、司馬遼太郎の短編の、人斬り伊蔵だとかもとてもいい。それから、好きな剣豪は塚原朴伝です。なぜなら、彼は隠れて居るようで、とてもすごい剣士だからです。

龍泉さん

剣豪について

初めまして。
僕は、塚原卜伝は日本史上でも最高の剣豪だと思います。獲った首の数が212(だったと思う)というのだから、とんでもないです。兎に角、日本一の人斬り名人でしょう。いろいろな逸話も残ってますね。派手な演出する割に、相当、慎重な人物だったみたいです。
他に、男谷精一郎なんか興味深いですね。誰と試合しても、必ず2勝1敗で勝つようにしたらしい。よっぽど腕に差がないと出来ないことと思います。

浅井長政さん

平将門

戦国英傑伝シリーズをやって思ったのが、このシリーズは戦国時代よりむしろ平安時代後期の武士の戦いを再現した方がいいものが出来るんではないかということを非常に強く感じました。英傑伝シリーズは数十人対数十人の戦いですから、むしろそうした時代の方がリアルに戦闘を再現できると。
戦国ファンは多いですが、平将門に興味のある人は少ないと思います。ですが小説等でよんでも面白いですよ。
織田信長伝の次はやっぱり家康か信玄といったとこでしょうが、平将門をテーマにゲームを作ってもいいものが出来ると思っているんですが。

(gameに関する内容は、『新歴史game』の方へお願いします。管理人)

江野公健さん

巴御前について

巴御前はめざましい活躍をしたと聞きましたけどどのような活躍をしたのですか誰か教えてください

絵惘@ウォレスさん

春秋戦国時代が大好き。

初めまして。僕は春秋戦国の時代がとても好きです。昨年公開された映画、始皇帝暗殺は最高でした。春秋戦国時代の人物で好きなのは管仲や楽毅です。その他、孔子や孫武もこの時代だし、秦帝国成立期には項羽や劉邦、韓仲が出てきます。この時代に詳しい方や、好きな方はお返事ください。

龍泉さん

re.春秋戦国時代が大好き。

初めまして。
春秋戦国時代いいですね。中国で一番活気のあった時代だと言われてますし。楽毅は有名だけど、どんな人物か知れるような話が伝わらなかったのが残念。
私は、マイナー?だけど藺相如が好きです。秦王を手玉に取った知略と胆力は、並じゃないと思います。

ゆいさん
E-mail:
meso0@geoph.s.u-tokyo.ac.jp

オルドについて

ただいまチンギス=ハーン4PCをプレイ中なのですが、イエスイとイエスゲンが、どうしてもオルドに入ってくれません。どうやったら入ってくれるのでしょうか。どなたか教えてください。
ちなみに、私のおすすめは、新シナリオ1の、金、(完顔陳和尚強いですねえ)と、新シナリオ2の、元です。皆さんもうプレイされましたか?

(gameに関する内容は、『新歴史game』の方へお願いします。管理人)

曹豹(偽)さん

図書助はいずこ

図書助(愛称ずっちー)。この名前を信長シリーズで目にしなくなってどれくらい経つのだろう。武将風雲録では必ず上杉に首を切られて死ぬおとこ、松本図書助。私は武将風雲録で奴が生き延びたところを見たことがない。何と愛すべき武 将だ。当時小学生だった私はいたく感動した。
だが、それからの全シリーズで彼は二度と姿をあらわしていない。自称ずっちー血盟軍の私はかなしい。そのため、私は新武将を創る時、必ず彼を創り出した。天翔記での彼の能力は、政治、戦闘、知謀、全て10(初期値2)戦闘能力全てE。寿命は7、野望は7。忠義1。そしてもちろん魅力100(笑)ああ・・・。
ずっちーは復活させるべきだ!と、烈風伝をクリアしておもう男であった。
P.S. 烈風伝のクリアは気にくわん!島津でクリアしたのになんとむき質なクリア画面だ!あんなことしてたら、達成感なくなってしまう!頼むよ、コーエー!

(gameに関する内容は、『新歴史game』の方へお願いします。管理人)

くろこさん
E-mail:
94sj1226@nmoon.aichi-u.ac.jp

朝倉氏の実力?

 わたしは戦国の覇者、織田信長と長きにわたって互角以上の戦いを続けた朝倉義景、彼の評価があまりに低いと考える者です。
 一乗谷城をみても、交易に力を入れていたことを見ても、戦国大名としての素質は十分に持っていたのではないかと考えます。
皆さんの意見はいかがでしょうか。

すみさん

信忠はほんとに凡将か?

初めて書かせてもらいます。
世間では織田信忠は凡将だとよく言われますが、ほんとにそうなのでしょうか?
甲斐平定軍の総大将したり、美濃を信長から任されたりするほどだからけっこう優秀だったのでは・・・?
織田武神伝の読みすぎかもしれませんが・・・

行長さん
E-mail:
yukinaga@pop21.odn.ne.jp

伊賀の忍者衆の3大棟梁について

 伊賀崎道順(別名:楯岡の道順)、百地三太夫、藤林長門守と3名、伊賀には棟梁がいましたが、藤林と、百地は同一人物らしいですね。では一体誰が3人目の棟梁だったのでしょうか???
 ぼくはこれらの人物ではなく、そういう棟梁は商人のように仕事請け負い人のような人だったと思います。たとえば服部半蔵正成、この人は家康に使えて最後は忍者のくせに大名になりました。
きっとこんな人物が棟梁だったのではないでしょか?だからきっと1人は商人みたいな人だったから後世の人が勝手に百地を2人にしたのだと思います。
これに関する詳しい情報待ってます^^

遠野善夫さん
E-mail:
tosaka@selene.dricas.com

re.伊賀の忍者衆の3大棟梁について

御説そのものは、たいへんおもしろい説だと思います。

まず、伊賀の3家の御指名の内、伊賀崎は、中忍であり、上忍である百地、藤林、服部の三氏とは格下です。

また、服部半蔵は大名ではありません(もしかしたら違うかも?)し、忍者でもありません(イメージ的には忍者なんですけどね。そんなこといったら「鬼の半蔵」が泣きます)。
ただ、親父の保長は、本当に乱波だったそうです。

で、丹波と長門の守同一人物説ですが、元々、供養塔にかかれた法名が酷似しているため、同一人物だといわれているようですが、それぞれの経歴見ると、やっぱり別人じゃないかなあと僕は思います。ただ、同じ活躍しているところもあったりして五分5分の可能性があると思います。

しかし、御説にある商人説というのは、結構あったかも知れませんし、何よりもかっこいい気がしますんで(^-^)大変おもしろいと思います。

其の31