ちゃちゃおさん
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勝手にリプレイ三国志��
韓玄で統一を! 「第六回 最終話 決戦・・・THE END の巻」 其の60の続きじゃ
233年11月から238年8月 所有都市は前回の最後を見て下さい
韓玄様の後を継いだ ほう統です。いよいよ曹叡との決戦の時がやってきました。我々は16都市で兵力47万、曹叡は31都市で93万。
数字だけ見ると圧倒的に曹叡が有利ですが、曹叡には�_罎�国により領土を2分され北東と南西の連絡がない��忠誠度の低下している武将が多く内応の不安がつきまとう、という不安要素があります。
今回は、この不安要素を徹底的に突いていきたいと思います。「忠誠度の低い武将を寝返らせると共に魏生え抜きで降伏が期待できない武将は捕まえ次第殺す」方針で行きます。
233年12月 西涼陥落
孤立している西涼を曹叡に落とされました。すでに計算済みだし、仕方がありません。
234年1〜10月 進撃開始
洛陽・長安・寿春・予章に大兵力を置き全領土をカバーする作戦が功を奏したのか、曹叡軍は全く攻めてきません。
そこで、こちらから攻勢に。長沙・桂陽・江陵を攻略し、さらに下邸も攻略しました。曹叡らを斬り「司馬い」が跡継ぎになりました。
234年11月〜235年4月 司馬い の逆襲
虚を突かれ、4戦連続で都市を奪われた敵軍ですが、兵力を104万(我が軍は44万)に増強し逆襲に転じてきました。
まず長沙を14万の兵で攻撃されましたが「陸軍は海上で水軍は陸上で殲滅」というセオリーで難なく撃退。
調子にのった我が軍は、司馬い の首を斬ってやろうと武陵に攻め返しました。諸葛亮殿に無理だからやめろと言われましたが、かまわず出撃。
ところが、待ちかまえていたのは 司馬い がしく鉄壁の守り。猛将・妖術・水計・伏兵・同士討ち・仙術と勢揃いし、裏切るとの約束はなんとウソ。
司馬い の首さえ取れば何とかなると思って城を目指しましたが、案の定、大反撃。10万を越える兵が戦闘開始からわずか5日間で壊滅してしまいました。
さらに悪いことは続くもので、下邸と江陵の太守が敵軍に寝返り。序盤の快進撃がウソのような状況になってしまいました。
235年5〜12月 荊州平定
「司馬い」の前に窮地に陥った我が軍ですが、兵力を増強して再度攻勢に乗り出しました。
武陵(14万vs14万:とうがい斬首)・江陵(15万vs12万)・じょう陽(14万vs11万:許猪斬首)を苦戦の末攻略に成功。
11月には武陵に攻めこまれましたが、寝返りが相次ぎ防衛に成功。荊州の領有を巡る戦いはほぼ決着がつきました。
236年1〜3月 司馬い を斬首
司馬い が西涼にいるとの情報が入りました。まず天水を攻略し西涼を孤立させ、3月には西涼を攻め落とし 司馬い を斬首。跡継ぎは司馬師です。
236年4〜6月 再び停滞
調子に乗った我が軍は下弁を攻撃しましたが、なんと3人もの妖術使いがいて、あっけなく敗れました。
この敗北で我が軍の進撃は止まってしまいました。
236年6月 司馬師を斬首
洛陽・長安の兵が西方に割かれたのを見て司馬師自ら洛陽に攻め込んできました。武将の能力・兵力とも相手が圧倒的に優位。だめかと思いましたが、なんと姜維が寝返り兵糧を奪ってくれました。じわじわと兵が減り、最後には司馬師を捕らえ処刑。司馬昭が後を継ぎました。
236年7月〜237年12月 圧勝!北東部を楽々制圧
司馬昭率いる魏は223年4月の我が軍による宛攻略以来、北東部(晋陽・ぎょう・許晶・しょう・徐州・下邸を結ぶライン)と南西部(蜀の領域+α)に分断されております。
洛陽での敗北が相当こたえたようで、北東部の兵はかなり減っております。そこで、南西部を牽制する兵を残しつつ、残りの全兵力を北東部に投入し一挙に制圧することにしました。
まずは、ぎょう(14万vs9万)・濮陽(13万vs7万)・徐州(12万vs6万)と相次いで攻略し、許昌・陳留・しょう を孤立させ、続いてそれら3都市を攻略。
さらに、下邸・平原・南皮・北海・晋陽・代県・北平・じょう平も攻略。徐州を攻略した時点で、敵兵力のほとんどは粉砕され、後は楽勝につぐ楽勝でした。
※同じ頃、新野および零陵の太守が我が国に寝返り。司馬望軍(司馬昭は北東部で戦死)は蜀など南西部の10都市を残すのみとなりました。
238年1月 皇帝就任
諸葛亮どのが私に皇帝になれとのこと。本来、韓玄様の一軍師に過ぎなかった私が皇帝になるなど考えたこともございませんでしたが、周囲の強いすすめもあって皇帝に就任。名声は一挙に854になり、司馬望の勢力関係は完全に逆転しました。