ちゃちゃおさん
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天翔記結果報告 シナリオ1 本願寺(後編)
畿内統一へばく進する細川の背後を襲い、その後もトンビが油揚げをさらうような戦い方をしたり、漁夫の利を得たりと必ずしもほめられた戦い方ではなかった本願寺軍。
あまりの手口の汚さにひんしゅくを買ったのか、周囲の強豪と不和になり、攻め込まれるようになってしまいました。
第6章 快進撃・総崩れ・快進撃
長宗我部に四国を奪い返され、長尾勢には国の中心に位置する美濃・尾張・伊勢・伊賀を奪われてしまった我が軍。もはや滅亡しかないかと思いきや、佐竹が長尾の背後を襲ってくれたため長尾勢は壊滅。
今こそチャンスとばかり伊賀・伊勢・尾張・越前に攻め込んで12城を奪還した。
これに対し兵を雇った長尾が猛反撃。那古屋城を拠点に伊勢・尾張に攻め込まれて8城を奪い返され、南近江の4城も攻略されてしまった。
またも絶体絶命の状況に戻ってしまった我が軍。大内・長尾・長宗我部らは兵を雇い、今度は攻め返すことすらままならない状況。近畿をうち捨て関東に逃れる事すら考えたが今は1548年、あと1年たてばザビエルが来て堺で鉄鋼船を購入できるようになる。その可能性を信じて粘ることにした。
畿内にとどまる事を決めた我が軍に対し、長尾・長宗我部が猛攻。長宗我部こそうまく撃退したものの、堺防衛に重点を置く我が軍に対し長尾勢が怒濤の侵攻。伊賀・大和・山城・丹波など11城を攻略し、堺にも攻めこまん勢いだ。
だが1549年秋、待ちに待ったザビエルが到着し鉄鋼船が購入可能に。さっそく里見義堯に買い与え、淡路島に配置した。
長尾勢が石山本願寺に攻め込んできたのは1549年冬。鉄鋼船なんておまじない程度にしか役立たないのではと思いきや、上杉勢は城に攻め込まず鉄鋼船めざして進撃。1ターンに大砲5発、攻撃されてもほとんどダメージを受けずに返り討ちという化け物の前に700の長尾勢は全滅し、畿内での快進撃はストップした。
一方、西では島津軍が急成長。土佐から石見まで南北に細長い領土を持ち島津の行く手をはばむ大内を撃破し(大内義隆は残り1城となったところで本願寺に降伏)、ついで四国東端&備前に領土を持つ長宗我部を撃滅(便乗して1城攻略)。さらには山名・浦上・武田も滅ぼし、山城の長尾勢も攻撃した。
その間我が本願寺軍は何をしていたかというと、島津の同盟国という立場をいかし、島津のおこぼれをちょうだい。島津に攻められ弱体化したと見るや浦上・武田との同盟も破棄し、長尾・浦上・武田から8城を獲得。とても坊主とは思えない火事場泥棒ぶりだ。
だが、島津との蜜月ぶりもここまでだった。1553年春、美濃侵攻を目指す島津軍に対し、火事場泥棒を狙った我が軍は4城とも攻略。島津軍の行く手がふさがれてしまい、攻める場所のなくなった島津と本願寺の間に冷たい秋風が吹くようになった。
季節ごとに友好度が低下していく中、このまま待っていても島津・長尾に挟撃されて滅びるだけだと思った私は、同盟が切れる前に長尾勢を追い払う事を決意。
自分より兵力の多い長尾勢に対し毘沙門天の生まれ変わりのような大勝利を次々とおさめ、大和・伊勢・尾張を回復。越前を長尾勢に奪われてはしまったが、訓練も行い島津軍を迎え撃つ準備は整った。
そうこうしているうちに1554年春、西日本を統一した島津と東北を統一した佐竹が同時に我が国との同盟を破棄。
島津・佐竹・長尾・北条と自分よりも強力な敵に取り囲まれてしまった本願寺勢に未来はあるのか?いよいよ最終決戦の時が近づいてきました。
現在の領土 : 阿波・淡路・紀伊・和泉・河内・摂津・播磨・大和・山城・丹波・伊賀・伊勢・近江(少し)・尾張・信濃・上野・武蔵
第7章 畿内全滅
時は1554年夏、島津軍の淡路島攻略部隊が出撃、日本最強をうたわれる島津軍の猛攻がここに始まった。この戦いこそ柿崎景家・里見義堯の率いる鉄鋼船で難なく敵を撃破して勝利をおさめる事ができたが、まだまだ序の口だった。
播磨(130vs590:4城)・摂津(130vs570:4城)・丹波&山城(290vs620:5城)・大和(30vs430)・和泉&紀伊(90vs370)と手も足も出ずに陥落。信長が鉄砲隊を使おうが百地が暗殺や火攻めを使おうが関係なし。防ぎようのない戦力差だ。
こうなったら、鉄鋼船に頼るしかないと思った私は、4将に鉄鋼船を買い与え近江に配備。兵を雇った後淡路島に行く手はずを整えた。
だが、行動力を全て使い果たして鉄鋼船を買ったのは迂闊だった。必要なのは鉄鋼船の購入ではなく、淡路の鉄鋼船部隊の兵力増強だったのだ。
柿崎景家40・里見義堯15に対し、淡路島に攻め込んできた敵兵力は950。「だめだあ、絶望だあ」と思ったが、敵部隊はせっかく鉄鋼船に隣接したのに攻撃もせずに待機。密集した敵船団に大砲をばんばん撃ち込む非常に楽しい展開になった。
だが、島津の攻撃はそれだけでは終わらなかった。柿崎33・里見8と兵の減った淡路島に580の兵で再攻撃。里見隊が集中攻撃を受け全滅し柿崎隊も21に。
次の季節に兵を雇えばいいやと思ったのだが、島津がなんと3度目の攻撃。630の兵に袋叩きにされた柿崎隊は全滅し、淡路島・石山本願寺も落城。
勢いにのった島津軍は今度は伊勢に侵入。一度は防いだものの兵力が消耗してしまった我が軍は伊勢の放棄を決意。伊勢・尾張の武将を今浜城に避難させた結果、畿内周辺の我が城は今浜城など5城になってしまった。
なぜ伊勢・尾張を放棄して近江を残したのかというと、島津に尾張を取らせれば長尾・松平などと隣接して彼らとの戦いが始まるかもしれないから。ようするに、勝利を目指すのではなく最後まで生き残る事を目指す事にしたのだ。
なんとも馬鹿馬鹿しい状況になってきたが、結果報告を書いている以上、ここで終わりというわけにもいかない。たとえ近江を落とされても関東に退避して最後の一兵まで戦う予定。
空前の長時間プレイながら全滅したとの報告を載せるのもまた一興。そう思いつつ、島津との戦いを続行することにした。
時に1554年冬、英明との噂のある世継ぎ本願寺顕如は12歳。早く成人して武将として登場してほしいものだ。
第8章 琵琶湖の怪物
近江にこもった我が軍に凶報が走った。武力の高い宿老として我が国を引っ張ってきた大内義隆・下間頼次が何者かに毒を盛られて死亡したというのだ。悪い事は続く物で、この後数年の間に里見義堯・村上義清・滝川一益(いずれも宿老・家老)も変死を遂げることになる。
戦いは小谷城の落城から始まった。小谷城の北にある金ヶ崎城も我が領土だったのだが、金ヶ崎城を攻められた私は面倒くさいと思いコンピュータに委任。だが、コンピュータがとんでもないミスをしでかしてしまい大軍がいる小谷城がまさかの落城。
伊勢・尾張も攻め取られ、畿内の我が領土はとうとう今浜・大垣の2城のみに。いよいよ滅亡の時が来たかと思われた。
だが、滅亡目前の我が軍の前に救世主が現れた。琵琶湖に浮かぶ5部隊の鉄鋼船である。1000前後の兵で今浜・大垣城に攻めてくる島津軍の精鋭を琵琶湖畔で迎え撃ち次々と撃破し、城内に入り込んだ敵に対しても毛利元就などの暗殺やらの鉄砲で撃滅。
島津軍にとっては琵琶湖も地獄、城内も地獄という状態になり多くの武将が捕らえられ我が軍に降伏していった。
長尾から美濃・越前を奪い、我が軍からも南信濃を奪いとった島津軍だが、近江にいる我が軍が気になってかそれ以上の侵攻はできずじまい。
今浜・大垣城を攻めては多くの将兵を失い、毛利元就の指揮する暗殺部隊に立花道雪ら数多くの名将を暗殺され島津軍は弱体化していった。
なかでも決定的だったのが1556年冬の松永久秀の謀反。各地の松永領の鎮圧に追われる中、我が国への圧力は減り、気のない攻撃が2度ほどあったもののいずれも難なく撃退。こうして島津軍の近江攻めは7回で一応の終了をみた。
1556年・57年と待ちに待ったのだが顕如は登場しない。代わりと言ってはなんだが姫が2名登場。さっそく姫武将にしたが父同様の能力で役立たず。武将にせず元就に嫁がせて隠居すればよかったと後悔。
だが、とうとう58年春に鍋島直茂・長宗我部元親・下間頼廉と共に本願寺顕如(16歳)が登場。浅井亮政らが死亡し、時代の変化がひしひしと感じられる。
さっそく証如を隠居させて顕如を後継ぎにしたのだが、なぜか証如より行動力が低い。能力値の低さが原因だと思った私は顕如を後継ぎにするのを中止して毛利元就を家庭教師につけ、マンツーマンで兵学・鷹狩り・算盤といった特訓を決行。飲み込みの早い顕如は季節ごとに合計30近く能力値を上昇させ、またたくまに全能力値が3ケタになった。
顕如の教育、武将の暗殺と続々とノルマをこなしていく我が軍に対し、島津勢は内部抗争で崩壊気味。松永久秀の乱のダメージをようやく回復したと思いきや、今度は龍造寺隆信が独立。ますます混乱の度合いを深めていった。
58年・59年にも3度ほど島津の攻撃があったが、いずれも我が軍の方が優勢なぐらいで難なく撃退。最後の戦いは島津忠良自ら鉄鋼船を率いており、鉄鋼船同士の仁義なき戦いとなったが、5隻いるこちらが数に物を言わせて勝利。島津忠良は琵琶湖上で爆死し、孫の義弘が後継ぎとなった。
忠良の爆死で無理を悟ったのか、島津勢の近江侵攻は以後2度となくなった。気がつけば守勢だったはずの本願寺の方が武将数・武将の能力とも上回り、反撃の準備は整ったというところ。
1560年春に証如が死亡し、顕如が後継ぎに。季節あたり63だった行動力は100に急増。大垣・今浜・小谷(島津との戦いで獲得)の3城で兵を雇い、いよいよ反撃の時がきた。
時に1560年春、名君本願寺顕如の指揮のもと、いよいよ本願寺勢の反撃が始まろうとしている。