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其の99

其の101




歴史game のお話 其の100


ちゃちゃおさん
E-mail:
chacha16@mug.biglobe.ne.jp

天翔記結果報告 シナリオ1 本願寺(前編)

 本願寺でのプレイが終わりましたので、その結果を以下に書かせていただきます。できるだけ短く書くよう心がけてはいますが、異例の長期戦になってしまいましたので文章領も多くなり、前編・後編に分けました。
 プレイ条件は「中級・セーブしてのやり直しはなし」です。

 第1章 石山本願寺陥落

 ゲームスタートの前にまずはデータを確認。領土は石山本願寺・長島願証寺・加賀・紀伊の4カ所に別れている。別れているだけならまだいいのだが、武将の頭数が少ない。4カ所に分断された7つの城をたった7名の武将で防衛。非常に困難な話である。

 そして何よりも困るのが大名である本願寺証如の能力。政才178A・魅力98は立派だが戦才120C・智才50B・野望60、お経を読むしか能のないただの坊主に過ぎない。
 おかげで季節あたりの行動力は48。満足にコマンドも実行できない状況である。

 ただ、唯一の救いとしては部下の優秀さがあげられる。戦争の達人や政治の達人として証如を支えてくれること間違いなし。

 説明はここまでにして、いざゲームスタート!


 序盤の最大の強敵は細川家。周囲の弱小勢力を攻略・脅迫して急速に勢力を拡大していくこと間違いなし。成長されては厄介なので、こちらから討って出ることにした。
 ターゲットは今にも細川に屈服しそうな畠山。細川・筒井と共に攻めたが、計算しつくした兵の動きで2城とも我が軍が獲得した。
 畠山攻めを見て脅威を感じたのか六角・北畠が同盟を乞うてきた。これで長島が安全になる。

 北陸では長尾勢の攻撃に便乗して富山城を獲得し、すかさず長尾と同盟。これで越前・加賀・越中・能登・飛騨はわが第3軍団の物になったも同然。さい先がいい。

 こうして最初の1年は大成功に終わったが、翌1535年は暗雲がたれ込める年となった。

 石山本願寺を3倍の兵力を有する細川勢に攻略され、続けざまに大和も陥落。紀伊だけは命拾いしたが、長島も織田・土岐連合軍に攻められ陥落。下間頼旦は織田の家臣になってしまった。

 時に1535年冬、本願寺に仏のご加護は無いのだろうか?

 現在の領土 : 紀伊・加賀


 第2章 天下分け目の大博打

 坊主がギャンブルとはとんでもない話だが、いちかばちかの大博打に出てみることにした。ターゲットは畿内の細川領。合戦に次ぐ合戦で急速に領土を拡大し南近畿のほぼ全域を制圧したのだが、兵力はわずか500。しかもほとんどが近江・大和におり、摂津・河内・和泉などは空っぽ。

 失敗したらば北陸に行くまでだと思い、武将3名・兵195で細川領に4度にわたり侵攻。合計12城を獲得し12名の武将を配下に加えた。
 数名の浪人も登用し、兵力を一挙に増強。さっそく第2軍団を結成し、その後も各地の細川領に侵攻していった。
 この時点で城数・兵力・武将数・収入はいずれもトップか2位。思いもよらぬ急成長をとげた。

 時は流れて1537年冬、瀬戸内海方面の安全を確保したい私は、細川を追いやり四国東部を統一した長宗我部国親と同盟。淡路島を攻略した。

 その後も周囲の争いを利用して、細川勢が消耗したところを襲撃しては城を獲得。万事順調と思っていたその時、凶報が入った。

 「加賀・越中の第3軍団、朝倉勢に攻め込まれ全滅。家臣も鈴木重泰以外降伏。」

 時に1538年夏、本願寺の将来は真っ暗かもしれない。

 現在の領土 : 紀伊・伊賀 + 摂津・河内・和泉・大和・山城・丹波・淡路


 第3章 神仏のご加護

 畿内の大半を支配しまずまずの兵力のある我が国に対し、大内・山名が同盟の使い。快諾した結果、隣接国の中で同盟していないのは伊勢・尾張の織田信秀のみ。かなりの強豪だが、総力戦を挑んで撃破してやろうと思う。

 いつの間にか米が6万になっていた。どこで入手したのか記憶にないし、当家の米収はそれほど多くはない。どうやら阿弥陀如来様のお恵み(普通はバグと言う)のようだ。
 それ以後は相場の上下を利用して、米6万を維持しつつ多額の金を入手。湯水のごとき金を軍備につぎ込めるようになった。

 ゲーム開始から5年が経過し1539年になった。それまでは本願寺の勢力拡大ばかり目立ったが、各地で強豪が勢力拡大を開始。美濃の土岐家は織田と長尾(同盟国)に攻められ滅亡し、近江・伊賀でかろうじて生き残っていた細川家も我が軍に3城を奪われ滅亡した。
 伊賀・近江の戦いは他勢力への共同作戦軍としての参加だったが、攻撃側・守備側が相討ちになり傷ついたところで進撃開始。トンビが油揚げをさらうような形で3城とも攻略した。

 続いて織田と浅井が正面衝突。共に兵力を激減させたところに、百地三大夫による暗殺が炸裂。ほとんど兵のいなくなった伊勢・尾張・美濃・近江を難なく攻略し、浅井は滅亡し織田も鳴海城1つを残すのみとなった。

 1542年には北陸の支配権を巡って朝倉と長尾が激突。兵力が激減した越前に武田元光の共同作戦軍として攻め込み、越前・加賀・越中の7城を攻略。朝倉は滅亡し、七里頼親などの旧臣が復帰した。
 武田元光に1城でも攻略されれば北陸と畿内の補給線が絶たれてしまう状況だったがうまく立ち回り、全ての城を我が軍が獲得した。

 長い間人材難に泣かされてきた本願寺軍だが、それも今となってはウソのよう。相次ぐ激戦により経験を積んだベテランと、将来性が高い若手・・・理想的な展開になってきた。
 時に1543年春、仏のご加護のある我が本願寺軍に敵はなしといった状況だ。

 現在の領土 : 紀伊・摂津・河内・和泉・大和・山城・丹波・淡路 + 伊賀・近江・伊勢・尾張・美濃・越前・加賀・越中


 第4章 嵐の前触れ

 周り中の勢力と同盟という好環境を利用して勢力拡大をはかってきた我が軍だが、序盤から同盟を結んできた長尾家との関係は北陸・飛騨の国境線を巡って悪化。友好度が0になってしまい、長尾から同盟解消の通達がされてきた。

 これに対し我が軍は北条・長尾との争乱で兵を失った小笠原を脅迫して臣下とし、続けざまに上野に攻め込み山内上杉を撃滅。北条・松平との同盟も達成され、長尾との決裂など一切関係なしに見えた。

 だが、それは甘かった。過度の勢力拡大のツケを払う時がとうとう来てしまったのだ。

 まず43年秋に長尾勢が加賀に侵入。兵力的にはこちらの方がまさっていたのだが、訓練すら出来ていない弱兵ばかりで、長尾の騎馬隊に蹴散らされ壊滅。百地三大夫が暗殺・火攻めと孤軍奮闘したものの3城とも落城してしまった。
 44年春には長尾為景が病死。ばちが当たったのだと言いたいが、相手の優勢は変わらずじまい。第2部隊にせかされて加賀奪還戦を挑んだもののまるで勝負にならず、川を使って防御してかろうじて引き分けに持ちこんでいる始末だ。

 44年秋には長年の盟友だった長宗我部が同盟を破棄。岸和田など3城を奪われてしまった。

 時に1545年春、同盟による一人勝ちの時代は終わり周囲との関係が怪しくなってきた。

本願寺45511860
長尾26631489交戦
大内2151940同盟
北条1856960同盟
島津1638950
長宗我部1434630交戦

 現在の領土 : 淡路・摂津・河内・大和・山城・丹波・伊賀・伊勢・近江・尾張・美濃・越前 + 信濃・上野
 失った領土 : 和泉・加賀・越中


 第5章 四面楚歌

 効率のいい同盟を繰り返し、周辺勢力の争いを利用して成長してきた本願寺軍。だが成長しすぎたのか、周囲の勢力から付け狙われる状況になってきてしまいました。
 長尾・細川に東西から攻められ、浦上・大内・北条とはいちおう同盟は結んでいるものの友好度はゼロ。いつ袋叩きにされても不思議ではない状態です。

 四面楚歌とも言えるこの状態をどう解決するか?それが今回の課題だと言えます。


 我が軍が真っ先に行ったのは長宗我部への逆襲。岸和田城を攻めると見せかけて長宗我部国親らを籠城させた後、意表をついて阿波を攻略。
 その後、畿内に孤立した国親軍を撃破し、続けざまに阿波・讃岐の数城を攻略。長宗我部勢は讃岐の1城を残すのみとなった。

 これで万事解決と思ったが甘かった。今度は関東の北条が同盟を破棄。挨拶代わりに我が軍の中核とも言える宿老鈴木左太夫を暗殺してきた。
 しかも越前では朝倉孝景が府中城を乗っ取り。孤立した2城を長尾勢に攻略されてしまった。

 土佐を攻略した島津との同盟、同盟中の松平が駿河・遠江攻略など朗報もあったが、苦難はまだまだ続いた。

 関東では下野にいる北条軍の主力を迂回して武蔵の6城を攻略するという離れ技を達成したが、その状況を北条軍が許すわけがなく、逆に上野に攻め込んで武蔵の我が軍を孤立させようという構え。
 一度は難なく撃退したが、続けざまに北条氏康の率いる精鋭が来襲。兵力的には互角なのに、城にこもる我が兵の半数を氏康一人で撃破。
 3城が落とされ、多数の将も捕まり最大のピンチといったところだったが、最後の1城で北条氏康・綱成を捕らえる事に成功。こんな物騒な奴らを生かしてはおけないと思い、両名とも斬首。
 主力がいなくなった北条領を攻め返し、さきほど攻略された3城を含む5城を攻略した。武蔵攻略により各地に領土が点在する形となった北条はこの後失速。同盟国松平の牽制もあり、北条勢が本願寺領に攻め込む事は二度となかった。

 北条・長宗我部相手の戦いは一段落ついた我が軍。あとは長尾のみだと思っていたのだが、1547年夏、最悪の事態が発生した。
 飛騨の長尾軍が突然美濃に侵攻し、美濃・尾張の11城を攻略し、31名の武将が長尾に降ってしまったのである。
 指をくわえてみている我が軍に対し、長尾勢は秋にも進撃を続行。伊勢・伊賀まで攻略し、我が領土は完全に東西に分断。

 さらに四国では、完膚無きまでに叩きつぶしたはずの長宗我部が大友とともに讃岐に侵入。讃岐・淡路島を奪われ、我が国の存在はますます危うくなってきた。

 1547年冬には佐竹と同盟し、その佐竹が長尾勢に猛攻を加えてくれ、長尾勢は壊滅的な打撃を受けたものの、我が軍が領土を取り返せたわけではない。

 時に1547年冬、本願寺の未来にあるのは希望か絶望か?お釈迦様にもわからないほど事態は混迷している。

本願寺41511740
島津31651720同盟国
大内30631310交戦
長尾2868320交戦
佐竹24681170同盟国
松平12530同盟国
北条431160交戦
武田18240
浦上29290同盟国
長宗我部13270交戦

 城の数は前章より4つ減っただけですが、支配する地域は激変しました。現在の所領は山城・大和・摂津・河内・紀伊・武蔵・相模・阿波です。

 同盟国ではあるものの、島津の九州統一と四国侵攻は不気味です。このまま勢力を拡大されたら手も足も出せなくなってしまうと思われます。

 現在交戦中の国はいずれも過去には同盟国でした。同盟国に助けられて勢力を拡大できたものの、かつての同盟国により滅亡の縁に追い込まれる。なんとも皮肉な話です。
 ちなみに、本願寺顕如は1546年の時点では4歳。登場するのはまだまだ先のようです。

 先が長いので、今回はここまでとさせていただきます。はたして本願寺は滅亡するのか、全国統一を達成するのか?次回は最後の最後までお伝えいたします。

ちゃちゃおさん
E-mail:
chacha16@mug.biglobe.ne.jp

天翔記結果報告 シナリオ1 本願寺(後編)

 畿内統一へばく進する細川の背後を襲い、その後もトンビが油揚げをさらうような戦い方をしたり、漁夫の利を得たりと必ずしもほめられた戦い方ではなかった本願寺軍。
 あまりの手口の汚さにひんしゅくを買ったのか、周囲の強豪と不和になり、攻め込まれるようになってしまいました。

第6章 快進撃・総崩れ・快進撃

 長宗我部に四国を奪い返され、長尾勢には国の中心に位置する美濃・尾張・伊勢・伊賀を奪われてしまった我が軍。もはや滅亡しかないかと思いきや、佐竹が長尾の背後を襲ってくれたため長尾勢は壊滅。
 今こそチャンスとばかり伊賀・伊勢・尾張・越前に攻め込んで12城を奪還した。

 これに対し兵を雇った長尾が猛反撃。那古屋城を拠点に伊勢・尾張に攻め込まれて8城を奪い返され、南近江の4城も攻略されてしまった。

 またも絶体絶命の状況に戻ってしまった我が軍。大内・長尾・長宗我部らは兵を雇い、今度は攻め返すことすらままならない状況。近畿をうち捨て関東に逃れる事すら考えたが今は1548年、あと1年たてばザビエルが来て堺で鉄鋼船を購入できるようになる。その可能性を信じて粘ることにした。

 畿内にとどまる事を決めた我が軍に対し、長尾・長宗我部が猛攻。長宗我部こそうまく撃退したものの、堺防衛に重点を置く我が軍に対し長尾勢が怒濤の侵攻。伊賀・大和・山城・丹波など11城を攻略し、堺にも攻めこまん勢いだ。

 だが1549年秋、待ちに待ったザビエルが到着し鉄鋼船が購入可能に。さっそく里見義堯に買い与え、淡路島に配置した。
 長尾勢が石山本願寺に攻め込んできたのは1549年冬。鉄鋼船なんておまじない程度にしか役立たないのではと思いきや、上杉勢は城に攻め込まず鉄鋼船めざして進撃。1ターンに大砲5発、攻撃されてもほとんどダメージを受けずに返り討ちという化け物の前に700の長尾勢は全滅し、畿内での快進撃はストップした。

 一方、西では島津軍が急成長。土佐から石見まで南北に細長い領土を持ち島津の行く手をはばむ大内を撃破し(大内義隆は残り1城となったところで本願寺に降伏)、ついで四国東端&備前に領土を持つ長宗我部を撃滅(便乗して1城攻略)。さらには山名・浦上・武田も滅ぼし、山城の長尾勢も攻撃した。

 その間我が本願寺軍は何をしていたかというと、島津の同盟国という立場をいかし、島津のおこぼれをちょうだい。島津に攻められ弱体化したと見るや浦上・武田との同盟も破棄し、長尾・浦上・武田から8城を獲得。とても坊主とは思えない火事場泥棒ぶりだ。

 だが、島津との蜜月ぶりもここまでだった。1553年春、美濃侵攻を目指す島津軍に対し、火事場泥棒を狙った我が軍は4城とも攻略。島津軍の行く手がふさがれてしまい、攻める場所のなくなった島津と本願寺の間に冷たい秋風が吹くようになった。

 季節ごとに友好度が低下していく中、このまま待っていても島津・長尾に挟撃されて滅びるだけだと思った私は、同盟が切れる前に長尾勢を追い払う事を決意。
 自分より兵力の多い長尾勢に対し毘沙門天の生まれ変わりのような大勝利を次々とおさめ、大和・伊勢・尾張を回復。越前を長尾勢に奪われてはしまったが、訓練も行い島津軍を迎え撃つ準備は整った。

 そうこうしているうちに1554年春、西日本を統一した島津と東北を統一した佐竹が同時に我が国との同盟を破棄。
 島津・佐竹・長尾・北条と自分よりも強力な敵に取り囲まれてしまった本願寺勢に未来はあるのか?いよいよ最終決戦の時が近づいてきました。

 現在の領土 : 阿波・淡路・紀伊・和泉・河内・摂津・播磨・大和・山城・丹波・伊賀・伊勢・近江(少し)・尾張・信濃・上野・武蔵


 第7章 畿内全滅

 時は1554年夏、島津軍の淡路島攻略部隊が出撃、日本最強をうたわれる島津軍の猛攻がここに始まった。この戦いこそ柿崎景家・里見義堯の率いる鉄鋼船で難なく敵を撃破して勝利をおさめる事ができたが、まだまだ序の口だった。

 播磨(130vs590:4城)・摂津(130vs570:4城)・丹波&山城(290vs620:5城)・大和(30vs430)・和泉&紀伊(90vs370)と手も足も出ずに陥落。信長が鉄砲隊を使おうが百地が暗殺や火攻めを使おうが関係なし。防ぎようのない戦力差だ。

 こうなったら、鉄鋼船に頼るしかないと思った私は、4将に鉄鋼船を買い与え近江に配備。兵を雇った後淡路島に行く手はずを整えた。

 だが、行動力を全て使い果たして鉄鋼船を買ったのは迂闊だった。必要なのは鉄鋼船の購入ではなく、淡路の鉄鋼船部隊の兵力増強だったのだ。
 柿崎景家40・里見義堯15に対し、淡路島に攻め込んできた敵兵力は950。「だめだあ、絶望だあ」と思ったが、敵部隊はせっかく鉄鋼船に隣接したのに攻撃もせずに待機。密集した敵船団に大砲をばんばん撃ち込む非常に楽しい展開になった。

 だが、島津の攻撃はそれだけでは終わらなかった。柿崎33・里見8と兵の減った淡路島に580の兵で再攻撃。里見隊が集中攻撃を受け全滅し柿崎隊も21に。
 次の季節に兵を雇えばいいやと思ったのだが、島津がなんと3度目の攻撃。630の兵に袋叩きにされた柿崎隊は全滅し、淡路島・石山本願寺も落城。

 勢いにのった島津軍は今度は伊勢に侵入。一度は防いだものの兵力が消耗してしまった我が軍は伊勢の放棄を決意。伊勢・尾張の武将を今浜城に避難させた結果、畿内周辺の我が城は今浜城など5城になってしまった。

 なぜ伊勢・尾張を放棄して近江を残したのかというと、島津に尾張を取らせれば長尾・松平などと隣接して彼らとの戦いが始まるかもしれないから。ようするに、勝利を目指すのではなく最後まで生き残る事を目指す事にしたのだ。

 なんとも馬鹿馬鹿しい状況になってきたが、結果報告を書いている以上、ここで終わりというわけにもいかない。たとえ近江を落とされても関東に退避して最後の一兵まで戦う予定。
 空前の長時間プレイながら全滅したとの報告を載せるのもまた一興。そう思いつつ、島津との戦いを続行することにした。

 時に1554年冬、英明との噂のある世継ぎ本願寺顕如は12歳。早く成人して武将として登場してほしいものだ。


 第8章 琵琶湖の怪物

 近江にこもった我が軍に凶報が走った。武力の高い宿老として我が国を引っ張ってきた大内義隆・下間頼次が何者かに毒を盛られて死亡したというのだ。悪い事は続く物で、この後数年の間に里見義堯・村上義清・滝川一益(いずれも宿老・家老)も変死を遂げることになる。

 戦いは小谷城の落城から始まった。小谷城の北にある金ヶ崎城も我が領土だったのだが、金ヶ崎城を攻められた私は面倒くさいと思いコンピュータに委任。だが、コンピュータがとんでもないミスをしでかしてしまい大軍がいる小谷城がまさかの落城。
 伊勢・尾張も攻め取られ、畿内の我が領土はとうとう今浜・大垣の2城のみに。いよいよ滅亡の時が来たかと思われた。

 だが、滅亡目前の我が軍の前に救世主が現れた。琵琶湖に浮かぶ5部隊の鉄鋼船である。1000前後の兵で今浜・大垣城に攻めてくる島津軍の精鋭を琵琶湖畔で迎え撃ち次々と撃破し、城内に入り込んだ敵に対しても毛利元就などの暗殺やらの鉄砲で撃滅。
 島津軍にとっては琵琶湖も地獄、城内も地獄という状態になり多くの武将が捕らえられ我が軍に降伏していった。

 長尾から美濃・越前を奪い、我が軍からも南信濃を奪いとった島津軍だが、近江にいる我が軍が気になってかそれ以上の侵攻はできずじまい。
 今浜・大垣城を攻めては多くの将兵を失い、毛利元就の指揮する暗殺部隊に立花道雪ら数多くの名将を暗殺され島津軍は弱体化していった。

 なかでも決定的だったのが1556年冬の松永久秀の謀反。各地の松永領の鎮圧に追われる中、我が国への圧力は減り、気のない攻撃が2度ほどあったもののいずれも難なく撃退。こうして島津軍の近江攻めは7回で一応の終了をみた。

 1556年・57年と待ちに待ったのだが顕如は登場しない。代わりと言ってはなんだが姫が2名登場。さっそく姫武将にしたが父同様の能力で役立たず。武将にせず元就に嫁がせて隠居すればよかったと後悔。

 だが、とうとう58年春に鍋島直茂・長宗我部元親・下間頼廉と共に本願寺顕如(16歳)が登場。浅井亮政らが死亡し、時代の変化がひしひしと感じられる。
 さっそく証如を隠居させて顕如を後継ぎにしたのだが、なぜか証如より行動力が低い。能力値の低さが原因だと思った私は顕如を後継ぎにするのを中止して毛利元就を家庭教師につけ、マンツーマンで兵学・鷹狩り・算盤といった特訓を決行。飲み込みの早い顕如は季節ごとに合計30近く能力値を上昇させ、またたくまに全能力値が3ケタになった。

 顕如の教育、武将の暗殺と続々とノルマをこなしていく我が軍に対し、島津勢は内部抗争で崩壊気味。松永久秀の乱のダメージをようやく回復したと思いきや、今度は龍造寺隆信が独立。ますます混乱の度合いを深めていった。

 58年・59年にも3度ほど島津の攻撃があったが、いずれも我が軍の方が優勢なぐらいで難なく撃退。最後の戦いは島津忠良自ら鉄鋼船を率いており、鉄鋼船同士の仁義なき戦いとなったが、5隻いるこちらが数に物を言わせて勝利。島津忠良は琵琶湖上で爆死し、孫の義弘が後継ぎとなった。
 忠良の爆死で無理を悟ったのか、島津勢の近江侵攻は以後2度となくなった。気がつけば守勢だったはずの本願寺の方が武将数・武将の能力とも上回り、反撃の準備は整ったというところ。

 1560年春に証如が死亡し、顕如が後継ぎに。季節あたり63だった行動力は100に急増。大垣・今浜・小谷(島津との戦いで獲得)の3城で兵を雇い、いよいよ反撃の時がきた。

 時に1560年春、名君本願寺顕如の指揮のもと、いよいよ本願寺勢の反撃が始まろうとしている。

城数武将兵力
島津1231371860交戦
佐竹451014050
本願寺191493940
松平25950同盟国
長尾24940にらみ合い
北条391520にらみ合い

 ※兵力・武将の逆転が目につきます。顕如になってから急増した行動力をいかし、いかにして敵を叩くか。それが今後の課題です。


 第9章 本願寺の野望

 武将数で島津を逆転し、顕如への当主交代も達成された本願寺軍。苦痛と忍耐の連続だった防衛戦は終了し、いよいよ討って出る時が来ました。

 まずは近江侵攻失敗で兵力が減った美濃に侵攻(900vs360)。難なく敵を蹴散らして、華々しい統一戦(?)のスタートを切った。この戦いは顕如にとって初陣であったが、大砲付きの足軽隊を率いて大活躍。陣頭指揮をとって敵を滅ぼしていく姿は先代の証如とは大違いだ。

 美濃陥落をみて動揺が走ったのか60年秋・冬に、松永久秀・龍造寺隆信が相次いで独立。島津勢は本願寺との戦いどころではなくなってしまった。
 これを見た我が軍は反乱の行方を静観。軍備を整えたり幹部候補生への教育をしたりしながら、島津・龍造寺・松永の3者の消耗をまった。

 61年春に北条勢が岩殿山城(甲斐)を襲撃したが松平の支援もあり返り討ち。甲府・玉縄(相模)の両城を攻略した。

 61年夏には宿敵長尾から同盟してほしいとの使いが。往年の強豪も今や飛騨・加賀・越中を残すのみだが、敵が減るのはありがたい。
 後方の安全が確保できた我が軍は、伊勢・大和の松永久秀領8城を攻略。そしていよいよ島津攻めにかかる事にした。

 現在の戦力は武将数・兵力で島津勢の2倍、戦闘力100以上の武将数で4倍。しかも我が軍の武将は勲功をあげ重臣となっているのに対し、島津勢は重臣のほとんどを暗殺され、大半が足軽頭・侍大将クラス。
 この状況で勝負になるわけがなく、我が軍の怒濤の攻撃の前に、摂津・河内・和泉・山城・丹波・丹後・若狭・伯耆・因幡の順に次々と城を攻略され、畿内の島津勢は総崩れ。西近江にこもって最後の抵抗を試みたが、戦闘力150以上の家老・宿老をそろえた法主親衛隊に難なく撃破され、1563年春、畿内の島津軍は滅亡した。

 西方でも第2軍団以下が中国・四国・紀伊に猛進撃し、島津勢の滅亡は時間の問題という状況になってきた。

 我が軍の快進撃を見て天下を統一されてしまうと思ったのか、1563年春に松平が同盟を破棄。10城・兵560の松平に対し、我が国は72城・兵6400。同盟破棄の使いが来たときはぎょっとしたが、これではただの自殺行為。
 今まで生き残っていた織田家の鳴海城を難なく撃破し、松平勢を釘付けにする包囲網が完成。討伐命令を待つのみとなった。

 1564年には龍造寺隆信・松永久秀が我が国に降伏し、島津領への第2軍団以下の侵攻が本格化。だが、攻め一辺倒だったため兵が消耗してしまい、島津勢の思わぬ反撃にあい10城落城。
 これに対して、私は戦闘中止を命令し、同時に多数の兵を派遣。守りを固めつつ兵力回復を行わせる事にした。

 一方、東方では上原城・高遠城(南信濃)に残っていた島津の残党を撃滅。この時点で島津は九州と四国・中国の一部のみとなった。

 第10章 島津滅亡

 近畿以東の島津軍を滅ぼした我が軍は、手こずりがちの山陰に顕如及び親衛隊を派遣。現地についてから訓練など軍備を整えるつもりだったのだが、喜び勇んだ第3軍団がなんと敵領に進撃。親衛隊も引きずられるようにして合戦に参加する事になってしまった。

 兵力的には860vs350と有利だったのだが、敵には当主島津義弘・家老織田信長がいる。両名の効果的な大砲攻撃により我が軍は同士討ちをするほどの大混乱。
 城攻めどころではなくなり、とんでもない大苦戦になったが、信長は元就が暗殺し、義弘の大砲は使いすぎで破壊。最後は島津義久と顕如の部隊が本丸まで到達し、義久・義弘兄弟の鉄砲の撃ち合いの後、顕如が島津義弘めがけて突撃をかけ、義弘の首をとった。
 以前とらえた時はまだ戦闘力80の足軽頭に過ぎなかった義弘。あの若者がここまでの英雄に成長しているとは思いもよらなかった。

 当主義弘を殺され弟家久が後を継いだ島津家は以前にもまして猛反撃。山陽で逆襲に転じて4城を奪った後、斉藤道三が柿崎景家・里見頼義の両名を暗殺。共に近江防衛戦の大英雄であり、宿老として本願寺家中を支えていただけにとんでもないショックだ。
 腹が立った私は斉藤義龍・斉藤龍興を捜しだし暗殺。他にも柴田勝家(宿老)・家老2名を暗殺してやった。かたや斉藤道三、こなた毛利元就。下克上を代表する2大英雄による暗殺合戦は白熱の様相を呈してきた。

 1565年冬、山陰での戦いに夢中になっている我が軍の隙をつき、松平清康が三河に侵入。鍋島直茂の鉄砲隊の活躍で食い止めはしたものの、2城が奪われ、兵の全くいない畿内への進路が開いてしまった。
 放置しておいては大変な事になると思った私は即座に軍を派遣して、尾張・相模・信濃の3方面から一斉に松平領を攻撃。希代の英雄松平清康は天下の夢破れ、1565年冬、55歳の生涯を閉じた。

 島津勢撃滅をはかりたい我が軍は備後から伊予に侵攻。瀬戸内海を挟んでの攻防戦となったが、1180vs650と兵力にまさる我が軍が勝利。

 この時点で島津に抵抗するだけの力はなくなったと見た私は全軍団に島津への猛攻を指示。伊予から九州に上陸した第4軍団が返り討ちにあい、安芸に島津勢が攻めてくるなどハプニングはあったが、度重なる戦闘による兵力消耗は隠せず、いよいよ滅亡間近になってきた。

 この時点で島津勢は42城を領有しているものの武将は51名・兵は790。武将215名・兵8400の我が軍にかなうはずもなく、66年冬に中国地方を中心に15城、67年春には北九州など13城が陥落し、一時は本願寺を滅亡寸前まで追い込んだこともあった島津家はここに降伏した。

 時に1568年夏、敵らしい敵は佐竹を残すのみ。いよいよ統一が見えてきた。


 第11章 統一達成

 宿敵島津を滅ぼしダントツのトップ勢力になった本願寺。次に狙いを定めたのは稲村城・久留里城にこもる北条。本願寺との戦い&暗殺攻勢で重臣を全員失い、残る家臣は足軽頭・侍大将のみ。
 無謀にも出撃してきた敵を蹴散らし、そのまま城になだれこみあっけなく撃破。証如時代の本願寺とは違う事をわかっていなかったがゆえの不幸だろう。北条氏邦を斬首し、また1つ元強豪が滅びさった。


武将兵力
本願寺15934011910
佐竹451114110
長尾341340同盟国
足利130

 とうとう佐竹を残すのみとなったが、まずは訓練をしながら徹底的に暗殺攻勢。身分の高い者や戦闘力の高い者をつけねらい兵力を3200まで減らした。

 我が軍に対する佐竹の最前線は下野・下総・越後。各地にずらりと兵を並べ、さらに暗殺攻勢をかけようと思ったが、しびれをきらした第4軍団が侵攻を開始。引きずられるようにして第1軍団も参戦する形になった。
 全軍団に対し佐竹への猛攻が発令された今、佐竹軍に勝機などあるはずもなく、鬼のような攻撃でまたたくまに主力部隊を撃破された佐竹は滅びるのを待つのみとなった。

 1569年春、残り18城・兵500のみとなった時点で佐竹は降伏。69年冬には長尾も滅ぼして統一達成となった。


++ 結果報告後記 ++

 斉藤道三での結果報告が長くなってしまったし、同じような物を書いても仕方がないと思い短めに書くつもりでしたが、思いもよらぬ長文になってしまいました。その原因は「プレイ自体が信じられないほどの長丁場になってしまったこと」につきます。
 斉藤でのプレイは平凡に勝ち進んでいくだけだったのに対し、本願寺での戦いは快進撃と総崩れの繰り返し。泥沼でもがき苦しむような戦いでした。

 今回のプレイのキーポイントとなった物を4つあげれば、行動力・同盟・鉄鋼船・暗殺だと思われます。
 序盤こそ驚異的な勝ち方でトップ勢力に躍り出たものの、本願寺証如の能力が低いため季節あたりの行動力も低く、侵攻すらままならなくなった我が軍は守勢にたつ一方。
 「顕如さえ登場すれば万事解決するんだ」と思ったものの、顕如が登場したのは1558年。プレイ開始から24年間も無能な当主と付き合う事になるとは予想だにしませんでした。
 証如の能力値が低いにもかかわらず生き残ってこれた理由としては同盟があげられます。途中から長尾・長宗我部などと敵対状態になりはしましたが、国境の大半が同盟国と接するよう注意を払っていたこともあり、行動力が低いなりに何とか持ちこたえる事ができました。

 そして、何よりも活躍したのが鉄鋼船と暗殺。特に鉄鋼船の強さは尋常ではありません。1回に何発も大砲を撃って敵の大軍を撃破し、討ち漏らした敵は水上での直接攻撃により一撃で撃破。鬼のような強さとはまさにこの事です。
 元就らによる暗殺もすごかったです。経験をつみ、戦闘・智謀とも最高値まで上昇した元就が助言をするので、やり損じる事は滅多になく、毎月のように3名・4名の敵将を暗殺し、勝負を決定付ける原動力になりました。
 特に元就の暗殺はすさまじく、立花道雪・柴田勝家など戦闘力が190を越える宿老を殺すことすらざら。彼がいなければ本願寺の天下統一は成し遂げられなかったかもしれないというぐらいの働きぶりでした。

 近江にこもると共に、関東に十分な兵を残していたのも勝因として忘れてはなりません。佐竹・北条への鉄壁の防御網をしき、攻め込むことすらあきらめさせた結果、島津との防衛戦に集中することができました。
 また、序盤に細川を強襲しトップ勢力となったのも勝因だと思います。自らがトップ勢力となった結果、長尾・細川・大内などの勢力拡大をふせぐことができ、島津勢が台頭するまで力負けする事はありませんでした。
 もしトップ勢力になれないでいたら、織田・細川などが畿内の大半を支配し、彼らに滅ぼされてしまうことすらありえたと思います。

 なお、私はどの作品でも本願寺でプレイしますが、その理由は一向一揆を発生させるのが楽しいことにつきます。しかし、今回のプレイでは一向一揆が発生したのは4度だけ。期待していただけに残念でした。


☆ 今回初めて見たイベント ☆

1543年秋 鉄砲伝来
 種子島に一隻のポルトガル船が漂着した。船に乗っていた紅毛碧眼の男は黒い筒をたずさえていた。たちまちのうちに知れ渡り戦になくてはならない物になった。

 言うまでもなく鉄砲伝来イベントです。鉄砲の購入が可能になりますが、1543年までに登場した武将は鉄砲の兵科適性が全員Eなので役に立ちません。1543年以降に登場する織田信長などはシナリオ2以降と同じ鉄砲適性がつく事を考えると、少し不公平な気がします。

其の99

其の101