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歴史game のお話 其の114


北条あんしんパパ氏康さん

将星録大友リプレイ第1回

将星録 大友リプレイ 第1回「弱肉強食、群雄割拠」
北条あんしんパパ氏康です。
ここのホームページを見て、私もリプレイをやってみたくなったので将星録でリプレイをやってみたいと思います。
一応、パワーアップキットの方でシナリオ1の大友家を上級でやります。
なぜ、シナリオ1の大友家かというと。
1 初期状態の家臣が多すぎず少なすぎないのでリプレイがやりやすそう。
2 決して弱い勢力ではないが、他にも強豪が近くにいるので簡単には勢力を拡大できなさそう。
3 九州なので鉄砲鍛冶イベントや、キリシタンイベントが起きやすそう。
4 配下に立花道雪がいる。(うっしゃあっ!)
5 大名が他の一流所に比べて強すぎない。
6 長期的に見ても武将が枯れない(と、思う)
以上の6つの理由で決めました。

それでは、始めたいと思います。

1551年4月 ゲームスタート
大友左衛門督宗麟じゃ。と、言ってもまだ22歳の青年大名じゃがな。
まったく、父上が血迷いさえしなければわしが順当に父上の後を継いで当主になれたものを…。ま、代わりにわしの周りには、わしに忠誠を誓った選りすぐりの家臣たちで固められとるがな。
とりあえず今の府内城下の有り様はひどいもんじゃな。
ここは内政で城下を整備する事にしよう。
農業を持っている吉岡、志賀、一万田は開墾と治水を、商業を持っている吉弘、田原は商業投資、道雪は唯一の建設取得武将なので府内城の改修じゃ。
よし、かかれっ。(働け働けー)
さてと、わしは有能な士が城下を訪れたときに備えて待機しておくかのう。
(大名が汗水たらして働いてられるかっての。ん〜〜むにゃむにゃ)

1552年1月
我が城下に臼杵鑑速なるものが来ているらしい。わしが登用しに行ったら「終生の忠誠を誓いましょう」とのこと。能力を見てみると戦での槍働きはともかく、内政や外交面では十分な働きをしてくれそうだ。(これもオレサマの人徳だな)
早速来月から得意の町投資をしてもらおう。
10月
肝付家が島津家に滅ぼされたようだ。今後島津家の動向次第のよっては当家としても方針を決定せねばなるまい。(チッ)

1553年3月
筒井家が三好家に滅ぼされたらしい。ここには直接の関係はないと思うが、巨大すぎる勢力ができてしまうのはどの地方にせよ困ったものだ。(ヤレヤレ)
4月
「美濃の蝮」斎藤道三と「尾張のうつけ」こと織田信長が会見をしたらしい。蝮とうつけの間で何があったのかは分からないが、ただの会見だったとも思えない。
今後の両国の動きは注意するべきかもしれないな。(カンケーないね)
5月
島津家が伊東家を滅ぼした。どうやら島津家とは近いうちに戦になりそうだ。
弟のいる大内家とは同盟を結んで島津家と当たる事になるだろう。
(ったくだらしねーな。うちが攻めるまで残っとけつーの)
6月
小島政章を家臣に取りたてる。特に際立った能力はないが、城の改修でもさせるとしよう。(ちっ、使えねえ)
7月
越前の名門、朝倉家の当主義景殿が一向一揆に討ち取られたらしい。
新しい当主は名将の聞こえが高い朝倉宗滴殿らしい。しかし、宗滴殿といえば70をすぎた高齢のはず。この先何年当主でいるかは分からないが朝倉家にも斜陽の兆しが見えてきたな。(ニヤリ)
8月
その宗滴殿が病死したらしい。後を継いだのは朝倉景隆殿だがここまで不幸が続くと他家の事ながら同情すら覚えてしまいそうだ。(ゲラゲラ)

1554年3月
相模の北条家、甲斐の武田家、駿河の今川家が相互に同盟を結んだらしい。
これは周囲の国にとってはかなりの驚異になるであろう。(ま、関係ないか)
4月
征夷大将軍足利義輝様が三好勢に敗れて戦死なされたらしい。義輝様は最近の公方様にしては積極的に幕府の再興を目指していた方だったのでまったく惜しい方をなくしてしまった。(捕まってんなよ剣豪将軍)
新しい公方様は弟君の義昭様だが、その器量の方は亡き義輝様と比べるとかなり疑問視されているらしい。(元坊主じゃこんなもんか)
5月
里見家が北条家に滅ぼされたらしい。やはり三国同盟で後方の心配が無くなったからだろうか。(やっぱ北条つえー)

感想
今のところは弱小大名が淘汰される時期ですね。特にこれと言って事件は起きてませんが、島津家がこんなに速く肝付と伊東を滅ぼすとは思ってませんでした。(上級だからか?)
朝倉義景が一向一揆に殺されるのはともかく、それから1ヶ月で宗滴まで病死するとは思いませんでした。(医術書は?)
基本的にあまり間を空けないで投稿しようと思ってます。
まぁ、長い目めで見てやって下さい。
なお、感想などはここに返事形式でください。
それでは次回をお楽しみに。

北条あんしんパパ氏康さん

将星録大友リプレイ第2回

将星録大友リプレイ 第2回「まったく最近の若い者は…」

大友家筆頭家老(とかいいながら現時点では部将)の吉岡長増でございます。
今回は内政が主な作業になりそうなので不肖、この私が進行役を務めさせていただきます。
え?政治は臼杵殿の方が高い(吉岡は66、臼杵は82)ですと?
まあその辺は置いといて。とりあえず今は家臣全員で内政に従事しておりますが、いつ何が起きるか分からないのが戦乱の世。
有事に備えて蓄財しておくのは基本中の基本。
宗麟様は今すぐにでも島津と一戦交えたがってますが、今は耐えていただかなければ。まったく最近の若い者は……。
おっと話が長くなってしまいましたな。それでは始めるといたしましょう。

1554年6月
安東家の当主安東舜季殿が病死なされた。新しい当主は嫡子の愛季殿のようです。
宗麟様に「弔問の使者を立ててはいかがですか」と進言したところ、「あんな寒いとこ誰が行くんだ?」と、一蹴されてしまいました。困ったものです。
8月
相馬家が伊達家に滅ぼされたそうです。いやいや、戦国の常とはいえ世の無常を感じずにはいられませんな。
9月
今年は各地で豊作だったようです。府内城下の田畑も豊作で賑わっているようですな。やはり、日頃の地道な内政活動が実を結んだのでしょう。
11月
尼子家の当主晴久殿が家中の武の柱である新宮党を粛正したようです。表向きは家中の内紛との事ですが、裏では最近力をつけてきた毛利家が裏で糸を引いていたとか。我が大友家も二階崩れの変を経験しているだけに他人事とは思えませなんだ。やはり家中が団結してこその大名家ですな。
12月
足利家が三好家に滅ぼされたそうです。とうとう尊氏公以来の室町幕府も滅亡の憂き目に遭ってしまいました。まったく嘆かわしい事です。
本来なら逆賊たる三好家を討伐しなくてはならない所ですが、今は何といっても戦国の世。残念ながら我が大友家は九州にあり、京までは遠すぎます。
しかしいつか、逆賊には天罰が下るでしょう。

1555年7月
田原殿が大内家と18ヶ月の同盟を結んでこられた。これで我が方は南に戦力を集中できますな。
9月
何やら相良家の動きが不穏になってまいりました。
私は止めたのですが宗麟様自ら5000の兵を率いて西の山間に造った支城に入ってしまいました。御大将がそんな軽はずみでは困るのですが…。
12月
どうやら相良の目標は本当に府内城のようです。宗麟様の先見の明がまさかこれほどとは。
戦は好きではありませんが領民を守るためとあればしかたありますまい。一応、立花殿を後詰めに送りましたが、宗麟様が率いる騎馬鉄砲隊(武器商人が来た時短筒を買っておいた)が大いに活躍してくれる事でしょう。
案の定、相良軍が宗麟様率いる軍に襲いかかってきました。しかし、相手は長躯八代城からやってきた疲れ果てた軍、対する宗麟様率いるは我が軍の中でも選り抜きの精鋭で編成した旗本衆。大名の晴広とは引き分けましたが猿渡信光は順当に捕らえて後、解放したとの事。
しかしこれからは相良に対しても牽制が必要でしょう。

1556年1月
なんと、宗麟様が留守の間に春姫様が「見れば、城中に人手が足らず…」と言って自ら武将に志願されました。宗麟様に使者を送ったところ、「春の好きにさせてやれ」との返事。
そこで、姫といえども当家では足軽頭から始めてもらう事を条件に武将として働いていていただく事になりました。
2月
宗麟様が岡本頼氏率いる軍を撃退したとの知らせが届きました。さらに、島津攻めは宗麟様を除いて行えとのこと、おそらく春様が武将になったので宗麟様がいなくても城を包囲できるようになったからでしょう。
早速来月にも立花殿を総大将に出陣していただきたいものです。
しかし、春様は大丈夫なのでしょうか。なにせ、とても戦をなさるお顔をしておりませんから…。(公家の姫みたいな顔)

感想
いやー、まさか姫武将が出てくるとは思いませんでしたね。しかも、リプレイ中には書いてませんが能力がまたすごい。91、84、83、商外登三、CCBEという親をはるかに上回る能力です。
いまから跡継ぎの事を考えてしまいました。(でも宗麟は長生きだから案外姫が先に死んだりして)
とりあえず、姫武将が出てきたので、宗麟を対相良に廻せます。
いよいよ次回は都於郡城で島津と激突でしょうか。
今回はあまり能動的な事はしませんでしたが、イベントや幕府の滅亡などそこそこの事件が相次いだので長くなってしまいました。(言い訳がましい)
一応、九州を統一して九州探題になるぐらいまでは続けたいと思ってます。
書き方の都合上、長くなってしまいますが見捨てないでやってください。
それでは次回をお楽しみに。

北条あんしんパパ氏康さん

将星録大友リプレイ第3回

将星録大友リプレイ 第3回 「九州南下作戦」

戸次鑑連こと、立花道雪でござる。今回はいよいよ戦が近いので拙者が進行役を務める事になりもうした。
敵は勇猛をもって鳴る島津勢でござる。
今回は我が軍の初めての戦であり、今後の事を考えても決して負けられない戦でこざる。しかも、御館様が相良に対する牽制として支城に入っておられるので通常ならかなりの苦戦が予想されるはず。
だが、幸い都於郡城は兵力、規模においてほぼ最低レベルにまで落ちている。
今ならば兵力に若干の不安の残る我が軍でも落とす事は可能であろう。
問題はその後の2城でござるな…。

1556年3月
いよいよ出陣でござる。出陣に先立って吉弘殿、一万田殿、春姫様に家宝を与えるようにとの御館様からの使者が参ったので、吉弘殿、一万田殿には兵装品や武器を、春姫様には、武器と短筒をそれぞれ与えもうした。ちなみに我が軍の陣容は拙者の足軽3000名、吉弘殿も足軽が3000、一万田殿には足軽が2500、春姫様は足軽が2000名の合計10500名でござる。
物見の報告によると都於郡城には4000人強の兵士しかいないとの事。
しかし城将は一門衆の島津歳久が務めておるらしい。
この兵力ならば油断をしなければ落とせるであろうが、念のため臼杵殿を輸送ユニットにして予備兵力と兵糧を運んでもらう事にした。
ここまで大規模な作戦が行えるのも大内との同盟により北の安全が確保されているからでござるな。
7月
ようやく都於郡城下に到着でござる。見れば島津歳久と種子島時尭は開墾に精を出している様子。
気は進まなかったが、城を手早く包囲するため種子島を攻撃。
奴め城に逃げ帰っていったでござる。このまま9月までに包囲をできれば兵糧攻めが楽になるのでござるが。
8月
都於郡城の包囲が完了したでござる。彼の城は近くを川が流れているため水攻めが行えたのだが、今年はどうやら間に合わなかったようでござる。
肝付城の島津勢がやって来ない内に落としてしまおうかのう。
9月
都於郡城下を見渡したところ、島津歳久はまだ城下で開墾をしている始末。
城の中には種子島時尭率いる約4500の兵、兵糧はまだ10000近くあるので兵糧攻めはあきらめて、力攻めに切り替える事にしもうした。
各将の奮戦で意外なほどあっさり都於郡城は大友家の物となりもうした。
その際、城内にいて最後まで抵抗を止めなかった種子島時尭に「かくなる上は大友家に仕えてはどうか」と、持ち掛けたところ意外にも「わかりました。こうなってはしかたありません…」と大友家の家臣になる事に同意してくださった。
種子島殿の鉄砲能力は大友家でも注目していたほどなので、今後の活躍が期待される。
10月
都於郡城を落とすには落としたものの、城下の有り様は惨澹たる物でござる。
これでは肝付城に攻める前に拙者らが干上がってしまう。
それに、今島津が寄せてきたらとても勝てそうにないでござる。
そこで、今年中は内政を行って少し余裕ができたら、肝付攻めという事になった。

1557年8月
本当はもう肝付城に攻めているはずだったのでござるが、思いのほか内政がはかどらず、結局、府内城から兵と物資を輸送する事になった。もうそろそろ着いてもよさそうな物だが、それまでは主に城の防御度を上げるとしておこう。
そうそう、拙者らが城攻めをしている頃吉岡殿が独立勢力の松浦隆信殿を取り込む事に成功したそうでござる。兵士数は2000名じゃがその兵が全て鉄砲隊というのは得したでござるな。
10月
今度は肝付城攻めでござる。城には8000人近く兵がいるという。
しかし、ここさえ落とせば島津の喉元に刃を突きつけたも同じでござる。
早速さきほどの都於郡城攻めの時の構成で、肝付城に出陣でござる。
11月
肝付城からな、なんと島津貴久自ら5000の兵を率いて出てきおった。
そこでこちらは港を前にした町の上で待機し、兵力差を地の利と能力でカバーする事にした。
すると、貴久め何を血迷ったか港から拙者の率いる軍勢に襲いかかってきおった。
いくら相手がこちらの倍近い兵力でもこうなればこちらの物。たまにこちらの部隊が混乱する事もあったが、貴久の部隊と北郷時久の2部隊を撃滅できた。
この功により拙者は家老になる事が出来、より多くの兵を率いる事ができるようになったでござる。

1558年1月
早くも肝付城の包囲に成功。まったく順調すぎて恐いぐらいでござる。
このような時こそ気を引き締めてかからねばな。
どうやら城内には負傷兵を含めても8000人ほどしかいない様子。
しかし、城防御度がMAXの700なのでしばらく包囲をして様子見でござるな。
3月
包囲の方は一万田殿と春姫様にお任せして拙者と吉弘殿で内城の警戒に当たっていたら、早速、山田有信と島津義弘率いる軍が拙者の篭っている支城に攻め込んできおった。
山田有信の軍を難なく撃退し奴を家臣に加えた後、島津義弘との戦闘に突入したのでござるが、この戦闘は激烈を極め結局引き分けに終わるかと思われた直前、拙者の率いる第1部隊が混乱を起こしてしもうた。
これでは、今月は行動できぬ。
4月
さらに、内城からは新納忠元と阿蘇惟将が率いる2部隊が増援として出撃してきたでござる。
さすがにこのままではいかに「雷神の化身」の異名を持つ拙者でも敗北は必至。
そこで、急ぎ都於郡城に伝令を飛ばし先に当家に降伏した山田殿に援軍に来ていただく事にした。これが間に合えば、拙者と山田殿の軍で敵を挟撃する事もできるであろう。
5月
むう、残念ながら、島津の方が先にターンが周ってきおった。案の定、新納軍と阿蘇軍は拙者に襲いかかってきおったが、運良くターンの最初に混乱が直っていたのでほぼベストの状態で臨めたでござる。
ここで拙者はまたも新納、阿蘇両名を捕らえて降伏させる事に成功した。
今や島津はほぼ一門衆だけでもっている状態であり、肝付城を包囲されている以上実質は内城のみといっても過言ではない。
しかし、義弘を始め島津家の一門衆の力はずば抜けており、まだまだ予断を許せる状態ではないでござるな。====>(第4回に続く)

現在の状況(全国のベスト5と大友家)
家臣兵 士
大友家174万4千
 
長尾家 6万5千
北条家215万9千
大内家145万2千
尼子家4万4千
今川家234万4千

感想
今回で3回目となるわけですが、だんだん書いていて訳がわからなくなりました。
肝付攻めのあたりからターンの順番があやふやになり、どっちが先だか分からない書き方になってしまったような気がします。
「やっぱりリプレイを書くのは大変だなー」と、改めて感じました。
さて次回ですが、果たして大友家はこのまま島津に勝つ事ができるのか、それとも島津が乾坤一擲の大勝負を挑んでくるのか?はたまた第3勢力が漁夫の利を得るのか。
それは私にも分かりません。
それでは次回をお楽しみに。

北条あんしんパパ氏康さん

将星録大友リプレイ第4回

将星録 大友リプレイ 第4回「激戦!!」

大友家武闘派のホープ一万田鑑実です。最近、部将に昇進したのでいよいよ野戦に出られると思ったら、私は肝付城の包囲部隊に廻されてしまいました。
(ガッカリ)
しかしこの包囲も大事な役目に変わりありません。
ここで私と春姫様が肝付城の兵力を封じ込めているからこそ立花殿と吉弘殿が内城からの妨害を防げるのでしょう。
早いとこ、肝付城を落として内城攻めに加わりたい物です。


1558年6月
いまだ島津は内城に29000人の兵を貯えており、早急に肝付城を落とさなくてはならないのですが、防御度700と兵糧10000はいまだ我が軍で落とすにはかなり堅牢です。(早く兵糧が尽きないかな)
7月
立花殿にまたも島津勢が攻撃を仕掛けてきたようです。敵は島津義弘と伊集院忠倉の2名、義弘には苦戦していたようですが、何とか2人を捕縛。伊集院殿は降伏しましたが、義弘は頑として抵抗の意を崩さなかったそうです。
しかし、立花殿はこれをあっけなく解放。
あれだけの猛将は配下にならない以上、本来ならば斬首すべきところでしょうが、敵ながら島津義弘もなかなかの名将。
恐らく名将同士互いに相通ずる所があったのでしょう。(うーん、熱いなあ)
今月、都於郡城から山田殿が到着したので包囲の役目を代わってもらいました。(山田殿は足軽頭なので兵糧の消費が少ないからです)
これからの私は主に遊軍として立花殿のサポートに回る事になりました。
10月
島津義弘は今度は吉弘殿に襲い掛かってきました。吉弘殿も果敢に戦いましたが、相手の圧倒的な勢いに押されとうとう全滅してしまいました。
立花殿が敵討ちとばかりに島津義弘の軍を敗走させましたが、さすがに鬼島津と言われるだけの事はあります。侮れません。
1時的に支城が空いてしまったので何と私が支城に入る事になりました。
(どきどき)
でもさすがに島津義弘あたりが出てきたら私では支えられそうにありません。
12月
立花殿が空いたので、支城から退く事になりました。
(ほっとしたような、がっかりしたような…)

1559年1月
島津義弘がしつこく出撃してきました。立花殿が横から突撃しましたが、島津義弘もさすがの名将。引き分けに終わったそうです。
そのせいでまた、私が支城に入る事になりました。(ああいそがしい)
2月
立花殿が島津義弘にかかりましたが、前回のダメージが大きく逆にピンチになる有り様。
何とか引き分けて都於郡城から補給ユニットで向かっていた松浦殿が補給したので兵力の回復はできましたが、内城の兵糧を削れなかったのは残念です。
4月
またしても、島津義弘が吉弘殿に挑んできました。やはり、吉弘殿では島津家随一の猛将義弘には勝てない様子。(単に相性が悪いのでしょうか)
結局、散々に蹴散らされ退却するはめに。仕方が無いので新納殿と私で多少とはいえ今の戦いでダメージを負っている義弘軍に向かうべく移動をしました。
5月
内城から見慣れない部将が率いる1隊が出撃してきました。最近になって内城で登用された上井覚兼という僧侶のようです。しかし無謀にも立花殿にぶつかったのが身の不運。本人こそ何とか逃げ延びたものの、いたずらに兵を減らす事になりました。
さらにもう一つうれしい知らせがあります。やっと肝付城の兵糧が0になりました。これで来月からはじりじりと兵が減っていく事でしょう。
7月
またしても上井覚兼と島津義弘が攻めてきました。まず立花殿のいる支城突っ込んだ上井覚兼が全滅、家臣に取りたてる事に成功しました。
(さすがは立花殿)
残る島津義弘の動きが気になりますが、いかに奴が強かろうと私と新納殿と吉弘殿でかかればおそらく撃退できるでしょう。

1560年1月
間者の報告によると、現在の内城の兵糧は8000ほどとの事、この量なら包囲さえすれば遠からず敵は兵糧不足に陥る。そう判断した私は立花殿に「今こそ内城に攻め込む時」と、進言しました。立花殿も同じ考えだったらしく、早速内城へ進撃となりました。
春姫様と山田殿は肝付城を包囲中なので、残りの4軍勢で進撃する事になりました。
途中で島津義弘の反撃が予想されるので、立花殿を先頭にして「いざ、出陣」。
3月
我が軍の中で何やら怪しい男を発見。捕まえて尋問したところどうやら肝付良兼の手の者らしい。早速間者の吐いた情報を頼りに追手を差し向けると良兼と思われる身分の高そうな侍が捕まったとの事。良兼はかつて肝付家中ではなかなかの勇将として名を馳せていたので、殺すには惜しいと思い声をかけてみたところ、「宗麟様に惚れ申した!」と、さっきまでとまるで態度が違う。
いやはや、食えない御仁だ。
内城の方では、攻撃隊が城の包囲を完了したようです。いよいよ島津に止めを刺せるわけですね。

1561年3月
もはや肝付城の兵力はわずか50人。
しかし念には念を入れ、もう少し待つ事にしているみたいです。
内城の方は立花殿が単身、城に突入。4000いた守備隊を2000まで減らす事に成功しました。(さすがに城は落とせませんでしたが)
5月
もう待ちきれなくなったのか肝付城を包囲していた2人が城攻めを敢行。足軽頭の2ユニットだったので落とせるかどうか心配でしたが、どうやら15ターン目にしてぎりぎり時間内に本丸を落とせたようです。
城の中には島津貴久、家久の親子がいましたが、今回の目的は彼らではないので解放したそうです。
これで島津も後1城になりました。次は私たち内城包囲部隊の番ですな。
今から城攻めの時が楽しみです。(わくわく)

感想
やっと肝付城までを取る事ができました。ここまででかかった年月は約11年。
これで現時点では九州最強の座を手に入れました。
全国的に見ても、武田家に次いで第6位にまで浮上しました。
やはり道雪が島津の家臣を登用しまくった事が大きいようです。
しかしまだ島津も滅んだわけではなく、大内も龍造寺も健在です。
とりあえず島津の一門衆は欲しいので、何とか全員が城に入っている時を狙って内城を落としたいと思ってます。
ここまでくれば九州統一はそんなに難しくはないでしょう。統一して余裕があったら「全国編」とでも題して天下統一までの過程をリプレイしてみようかな?
とも考えはじめてます。

現在の勢力(上位5勢力と大友家)
武将兵 士
大友家228万2千
 
北条家239万
浦上家163万7千
大内家159万2千
長尾家7万8千
武田家256万2千

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