乙三、またの名を大膳大夫さん
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本能寺の”変”な真相(ちゃちゃお殿にレス)
私は、やはり(何度か同じことを書いているので)共同謀議説を採ります。
共犯は羽柴秀吉と徳川家康、毛利,北条,上杉も同調したと考えられます。状況証拠のみで具体的な根拠に欠けますが、あの光秀が成算に乏しい反乱を起こすとは、どうにも納得がゆかないためです。
丹波攻略に際して、光秀の所領は南近江・滋賀1郡のみ、動員可能な兵力は多めに見積もっても3千足らず。北山城の豪族・地侍を指揮下に置いたと云われるが、それを加えても最大兵力は5千程度、しかも5千の兵を長期にわたって展開し続けるのは困難だったでしょう。顧みて丹波・丹後を併せた兵力は9千を超え、親織田派や中立派を除いた地元敵対勢力の兵力合計は少なくとも光秀と互角、おそらくは上回っていたと思われます。
それを相手に、4年2ヶ月(1575年6月から1579年8月まで)かけて丹波・丹後両国を平定しています。1576年 4月から1578年12月の間に細川藤孝,筒井順慶を寄騎(組下)大名として付けられていますが、各方面の援軍に頻繁に駆り出されているので割り引いて考える可きでしょう。また光秀の軍団だけは他軍団の応援を借りていません。
この実績から思うに、光秀は、周到に準備し緻密な作戦を立て計画的に実行するタイプの武将だったようです。その光秀が、遅かれ早かれ織田家中の他軍団から袋叩きに合うのが明らかな間抜けな反乱を起こすとは、私は腑に落ちません。本能寺を襲う前から、光秀には成算あるクーデター計画ができていたと推測されます。
そしてクーデターを成功させるには、織田家の軍事力の半分以上を掌握しなければなりません。秀吉と家康の2人と共謀した上で、信長と同時に信忠も討ち取れば信忠の軍団は空中分解する。北陸,甲信,北関東の勝家や一益などの軍団に対しては、上杉や北条が攻勢をかけて少なくとも足止めを食わせれば、残るは四国渡海準備のため堺にいる信孝,長秀の軍団のみ。まず信孝,長秀を撃破するか降服させ、信雄(それがダメなら信澄)を抱き込んで織田家の継承者に担げば、その他大勢の家中の大小名は従うであろう。それでもなお従わない者がいれば、主命を以て光秀,秀吉,家康の連合軍が一気に攻め潰す。後は、御曹司の誰かを表向きの代表者にして有力武将の合議制で織田家を運営する。
このようなシナリオが忠実に実行されれば、おそらくクーデターは成功していたでしょう。
問題は”主殺し”である光秀の処遇ですが、取りあえず家臣と領地を女婿の細川忠興に相続させ、光秀自身は剃髪して謹慎する。多数派の支持が得られた場合は織田家の行政官として復権し、最悪の場合でも光秀1人が腹を切って事を収めるつもりだったとすれば、辻褄が合ってきます。
クーデターの動機は、信長が日本の封建体制を壊して絶対王権を建てようとしていたこと、それが完成した暁には封建領主は全て家臣と領地を没収され、官僚として政権に止まるか追放されるか何れかの運命をたどることになると、光秀や秀吉,家康は洞察していたからと考えられます。だからこそ光秀は正義と信じ、いずれ家中の多数から理解も得られると楽観していたのでしょう。
うーん、小説のネタにはなりそうですが、新しい説と云うには根拠が薄弱ですね。おいおいに裏付けをとってゆく所存です。 かしこ